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「戦争中の新聞等からみえる戦争と暮らし」  ◆九江の日本人小学校
愛知県立大学名誉教授  倉橋 正直



写真

昭和17年6月15日
鎮座式の折 チゴ
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 【1】 九江の日本人町の形成

地図 漢口 九江 南京 上海

地図
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 九江は揚子江(長江)水運の重要な港町である。町の規模はやや小さい。近くに廬山(ろざん)という有名な避暑地がある。廬山はいわば中国の軽井沢に当たり、欧米人の別荘があった。1938年7月26日に陥落する。以後、7年間、日本軍の支配を受ける。重要な港町なので、多くの兵隊がずっと駐屯した。

 1939年1月1日、九江の日本人会が結成される。2月18日には国防婦人会も作られる。こうして、九江にも日本人町が形成されてゆく。前年の7月末の占領から、およそ半年が経過している。他の日本人町に比べると、九江の日本人町の形成は大幅に遅れる。一般には占領後、一ヶ月もすれば、日本人町が形成されるからである。

 日本人町の形成が遅れたのは、九江が軍事作戦の基地として利用されたからである。九江を陥落させたあと、日本軍は引き続いて、南昌と漢口の攻略をめざす。南昌は九江の南に位置し、江西省の省都であった。また、漢口は長江中流の中核都市であった。

  南昌と漢口の攻略戦では、九江が準備の拠点となった。作戦に必要な兵員、武器弾薬、食糧などは、ほとんど全部、長江の河川交通を使って、運搬されてきた。南京と漢口のほぼ中間に位置する港町・九江が、軍事物資の運搬のカナメとなった。

 このため、軍は、避難民を郊外(長江の岸辺)に作った難民区に9ヶ月間も収容し続けた。地元の中国人を九江の町に帰還させなかった(『大阪朝日中支版』1939年8月2日)。南昌と漢口を攻略する部隊が次々と九江にやってきて、準備を整え、また、戦地に出かけていった。

 日本人の民間人は数百人規模で、すでに九江の町に移住してきていた。彼らは九江の町にやってくる軍隊の世話をしていた。しかし、軍は、彼らが日本人会を結成し、日本人町を形成することを許さなかった。南昌は1939年3月、また、漢口は同年10月に陥落する。二つの作戦が一段落したあと、やっと、軍は日本人町の形成を許した。こういった事情から、九江の日本人町の形成が大幅に遅れたのである。

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 【2】 九江日本人小学校の再開

 九江の日本人町が形を整えると、次は小学校の再開であった。1939年1月27日、小学校が再開される。次の史料は、できたばかりの九江の小学校のようすを伝えている。

 九江邦人小学校開く
 長江沿岸の九江に、先生一人、生徒七人といふ文字どほり小じんまりした小学校が誕生した。日本領事館別館を仮校舎とした尋常小学校で、七人の生徒に一年生から六年生までゐるが、この小さな学校の校長兼訓導には、北海道北見小学校訓導だった千田部隊島田親一等兵がこれに当ってゐる。
 これら小学生はいづれも遠く内地、或は中支、北支から集った生徒さんだけに、戦禍の町にもすぐ馴れて、元気一ぱい大陸的気分を謳歌しながら、支那街を小さな肩で風を切りながら、楽しさうに通学してゐる。
 島田訓導の話。尋常高等小学校と看板は大したものですが、御覧の通りの寺子屋です。生徒がふえたら、もっと拡張しますが、これでは全く雀の学校です。皆、学校に来るのが唯一の楽しみだといふ熱心さで、無欠勤ですが、時々、少々的とか没法子とか、支那語交りに話されるので先生は少々やりこめられがちです。
『大阪朝日中支版』 1939年1月27日

写真

昭和17年6月16日
浦安ノ舞一同
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 当初、先生一人、生徒七人であったから、学校といっても、むしろ寺子屋に近い感じであった。正式の教員がすぐに赴任できないので、九江に駐屯する部隊から、教員の経験のある兵隊が派遣され、臨時に教師を勤めた。現役の兵隊が臨時に教員を勤めるような事態は、九江だけではなく、中国戦線の日本人小学校では、しばしば見られた現象であった。
 軍と領事館は、日本人民間人の子どもの教育を保障するように努めた。子どもの教育がきちんと保障されないと、民間人は定住しにくかったからである。民間人が占領地の都市に安心してやってきてくれることを、軍も望んでいた。軍は時に現役の兵隊を臨時に小学校に派遣して教員にさせたが、これも、占領にやってきてくれる民間人を、軍が重視していることの現れであった。

 1939年4月に新学期が始まる。あらたに校長が着任している。スタッフは以前から教えている島田訓導(訓導は、現在の教諭に当たる)と二人になる。

 九江小学校 感激の始業式
 (中略) 四日の始業式には、赤い煉瓦のバンガロー風の校舎に可愛いランドセルを肩に四人の新入生が入ってきた。
 校長の秋山覚先生(福岡県京都郡犀川村出身。小倉師範卒業生)「これで、総勢十二名になりましたよ。」と嬉しさうな顔。始業式は内地と同じやうに午前八時、宮城遥拝、国歌合唱からはじまって、校長先生から「内地のお友達に負けないやうに勉強しませう。」の訓話があり、小森領事、山下警察署長、加藤居留民会長らの来賓たちの喜びの言葉が、学童たちの豊頬をいやが上にも紅くさせた。
 この式にはお母さん方の国防婦人会のメンバーもみんな参列して賑やかだった。この小学校が復活したのは、今年一月十九日だが、四月の新学期といふのは、こんどがはじめてで、新入生もふえたし、九江駐屯の小野部隊から、島田親一等兵が先生として加はることとなった。島田先生は北海道野付牛町の出身。札幌師範の卒業生。
 秋山校長は「これですっかり学校のスタッフは整ひました。学年が区々ですから、大体、二部教授でやります。大陸の学校らしく、伸び伸びと教へたいと思ひます。 (中略) 秋山先生は大陸に渡って、すでに十三年。いはば小学教員のエキスパートで、お母さんたちも大喜びである。
『大阪朝日中支版』 1939年4月21日

 1940年3月、小学校で卒業式が挙行された。この時点で生徒数は39名に増えている。卒業生はただ一人だけであった。九江は長江の河川交通の要衝を占めていたので、日本人が早くからやってきていた。九江日本人小学校も、大正12年(1923年)には開校されていた。日中戦争の勃発で、一時、閉鎖されていたのを、再開したことになる。今回、行われた卒業式は、通算して第15回目に当たっていた。

 九江日本尋常高等小学校の晴れの卒業式は、同日午前十時より、同校講堂で挙行された。事変で閉校し、昨年四月、ふたたび授業を開始してより、こんどが初の卒業式だが、大正十二年の開校当時から数へると、ちゃうど第十五回目の卒業式に当ってゐる。なほ、本年度卒業生は、在学児童三十九名のうち、たった尋常科女子一名であったが、
『大阪朝日北支版』 1940年3月30日

 1940年には、九江在留の日本人は1500人ほどであった。中国戦線に形成された日本人町としては、それほど大規模ではなかった。在留日本人が増加するにつれ、九江小学校に通う生徒の数も増えていった。

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 【3】 小学生はいわば兵隊たちの「ペット」

 幼い小学生は、九江の町では人気者であった。人々から可愛がられた。とりわけ、兵隊は子どもたちを好んだ。可愛い小学生を見ていると、内地に残してきた、自分の小さい子どもや、あるいは幼い弟妹を思い出すからであろう。そのこともあって、兵隊たちの大好きな余興であった運動会には、子どもたちを必ず招いた。子どもたちは、運動会で兵隊たちといっしょに「かけっこ」やゲームに打ち興じた。子どもたちのそういう姿を眺めることで、兵隊たちは、大いに慰められた。小学生はいわば兵隊たちの「ペット」であった。

次は、小学校側が、野戦病院に収容されている傷病兵を慰問するために開催した運動会のようすである。国防婦人会員も加わったので、彼女たちといっしょに傷病兵、児童が、運動会を楽しんだ。

 皇軍慰問運動会 九江小学校で  「兵隊さんよ ありがたう」
 ‥‥九江日本小学校では、十四日午後一時から、○○野戦病院で慰問運動会を催した。この日、連日の雨もあがり、運動会日和となり、傷病兵に白衣の天使、それに九江国防婦人会員も加はり、本社が一昨年、挙行した亜欧連絡機・神風号に因み、傷病兵、児童、国婦合同の神風号競技をトップに、プログラムは進められ、終始、和やかに童心にかへった白衣の勇士達は大よろこびであった。
『大阪朝日中支版』 1939年3月17日

 次の史料では、軍が開いた運動会に、小学生が参加している。

 “電髪ヒッコメ” 白衣勇士と看護婦 九江部隊の運動会
 秋晴れの五日、野戦予備病院・折井部隊の白衣勇士慰問秋季運動大会が、甘棠湖畔の同部隊運動場で、賑やかに開かれた。もと支那軍の練兵場だったといはれる、この広場には日の丸の旗が高々とひるがへり、秋空の下、白衣勇士も看護婦さんも、それに特別参加の九江日本小学校児童らも一しょになって、競技のたびごとに、ドーッとばかり、腹の底から朗かな笑ひをあげるのだった。
『大阪朝日北支版』 1940年11月21日

運動会の写真


運動会で、子どもたちの遊戯。九江で
岩田錠一軍医撮影

 運動会の写真を紹介する。これは岩田錠一軍医が撮影したものである。彼は1938年7月から1941年1月まで、約2年半、中国に出征した。主に九江の軍の病院に勤務したので、残された写真の大半は九江で撮影したものである。「当日ノ運動会 軍民合同」という説明がある。運動会が行われた期日や場所はわからない。兵隊たちが見ている前で、8人ほどの小学生が日の丸の旗を持って、なにか遊戯しているようである。真ん中に立っている女性は小学校の教員であろう。
 当時、「へいたいさんよ ありがたう」という児童唱歌があった。この歌に合わせた子どもたちによる踊りが、運動会のいわば定番になっていた。それを見て、兵隊たちがとりわけ喜んだからである。この写真も、ひょっとすると、「へいたいさんよ ありがたう」の歌に合わせて、子どもたちが踊っているところを撮影したものかもしれない。
 観兵式にも、小学校児童が、国防婦人会員とともに参加している(『大阪朝日中支版』1940年1月12日)。

 町外れにある野戦病院を、連日慰問する九江小学校の三人の少女の様子も記されている。

新聞記事 兵隊さんよ有難う…

『大阪朝日中支版』 1939年5月28日
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 兵隊さんよ有難う 可愛い振袖姿で 白衣勇士を慰問 空には荒鷲の爆音 九江小学校の三女生徒
 支那唯一の霊峰廬山を眼前にひかへて、そのこころよい微風を胸一杯に吸ひながら、たのしく授業をうけてゐる九江日本人小学校の可愛い三人の女生徒が一日も欠かさず、毎日毎日、九江の○○野戦病院に白衣の勇士を見舞って、その無聊を慰めてゐるのだった。
 この九江日本人小学校は、皇軍のあたたかい庇護のもとに十八名の児童が、毎日たのしく授業をつづけてゐるのだが、『こんなに、わたしたちが平和に暮せるのは、みんな兵隊さんのお蔭です。お国のために傷ついた兵隊さんのお蔭ですから、お見舞に行きませうね』と、級長町田久子さん(13歳)の発案で、矢間貞子さん(12歳)、上遠野淳子さん(10歳)の三人は、授業が終ると、いつもいつも○○野戦病院に白衣の勇士を慰問するのだった。
 けふは日曜日だといふので、お母さんにねだって、久方ぶりに和服を着、振袖姿も可愛らしく病院を訪れたが、白衣の勇士はじめ看護婦さんたち、よろこぶまいことか、『やあ三年ぶりに日本の子供を見た』、『まあ可愛いこと‥‥』と、たちまち院内の人気をさらってしまって、カメラの放列に引っ張り凧。
 江頭看護婦長の案内で、隈なく白衣の勇士を訪れ、歌ったり踊ったり‥‥可愛い口をそろへて、本社の「兵隊さんよ ありがたう」をうたへば、胸をうたれてホロリとする勇士の顔。各病棟で七十余回もうたって、たのしい日曜日を送ったのだった。外は荒鷲の勇ましい爆音、馬蹄の響がきこえてゐた。
『大阪朝日中支版』 1939年5月28日

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 【4】 在留日本人は恵まれた生活を送る

 漢口の日本人小学校校長の浅野兵庫は、在留日本人の「大抵の家庭が支那人のアマやボーイを沢山、使ってゐる」。このため、「子供たちは朝から夜まで、すべての世話をこの使用人たちにやってもらふ」状況だと述べている。彼の指摘は重要である。なお、「アマ」は「阿媽」とも書き、女性のお手伝いさん、「ボーイ」は男性の使用人を指して、呼んだ呼称である。

 大陸人 東洋を興す途 大陸教育者の悩み 漢口の浅野校長さん!
 (中略)見るからに大陸教育者らしい浅野校長先生は、尊皇の地、茨城県の出身者だけに、まづ日本人論から始めるのであった。
 質朴な内地と違って、大陸では、大抵の家庭が支那人のアマやボーイを沢山、使ってゐる。子供たちは朝から夜まで、すべての世話をこの使用人たちにやってもらふので、人間といふものは、なんにもしなくても、使用人がやってくれるものだといふ坊ちゃん、嬢ちゃん気質を、知らず識らず備へてしまひ、依頼心の多い独立心のない性格がここから生れて来て、日本人らしい強さがなくなってしまふ。
 この問題は学校だけでは解決出来ないので、私達も家庭に呼びかけて子供達につとめて自分のことは自分でさせるよう、熱心にすすめてゐるのです。
『大阪朝日北支版』 1940年5月18日

写真

白木実業公司軍納味噌工場の前で
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 日中戦争時、中国戦線の日本人町にやってきた日本人の多くは、戦時の統制経済に乗り切れず、内地から排除されて、やむなく中国戦線に移住してきた人たちである。だから、たしかに彼らは戦争の犠牲者であった。ところが、いったん中国にやって来ると、彼らの立場は変わる。彼らは占領軍の同伴者になる。中国人を犠牲にして、比較的恵まれた生活を享受した。彼らの多くは、中国人の使用人を雇えるだけの経済力を持つようになる。
 一方、被占領者の中国人からすれば、日本人家庭に雇われることは、生きてゆくうえで好都合であった。アマやボーイとして日本人家庭に雇われれば、当面、安全に生きてゆけたからである。浅野校長が述べたのは漢口の状況であったが、九江でも当然、同じ状況があてはまった。九江の在留日本人もまた、中国人の犠牲の上に比較的裕福な生活を送っていた。

 以前、氏本靖彦氏(仮名)から九江在留の日本人に関する写真の提供を受けた。その一部を紹介する。氏本氏の家族は、九江で「白木実業公司軍納味噌工場」を経営していた。白木実業公司は、日中戦争時期、中国戦線の各地に店を出していた大きな会社であった。

 更正二周年迎ふ 九江のカメラレポート
(中略) 在留邦人は一千五百だが、この地を経済開発の前進基地として、奥地へ奥地へと進出をつづける邦人の動きは最近、いっそう活発になってきた。三井物産、川南工業、白木実業などの大資本をはじめ、日本商権の撓(たわ)まざる進出によって、日支経済提携の実は着々とあげられてゐる。
『大阪朝日北支版』1940年8月8日

 九江では白木実業公司は有数の大資本であった。氏本氏の父親は、その白木実業公司の九江の店をあずかっていたのであろう。氏本氏には年の離れた姉たちがいた。
 「昭和17年6月15日 鎮座式の折 チゴ」いう説明のある写真に、稚児姿の少女が二人写っている。彼女たちが氏本氏の姉たちである。九江神社が建設される。そのめでたい式典の時、姉たちが稚児姿で参加している。また、「昭和18年6月16日 浦安ノ舞一同」という説明のある写真がある。九江神社の祭典の時、姉たちが浦安の舞を舞った。父親が町の有力者だったので、娘たちは着飾って、晴れの舞台でめでたい舞いを舞えたのであろう。
 九江神社の写真もある。小さい日本人町なのに、神社の規模は相当大きい。日本人町で暮らす在留日本人にとって、神社が精神的な拠り所になっていた。だから、条件が整えば、日本人町では必ず神社を設立した。

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 【5】 生徒たち多数が廬山の林間学校に行く

 氏本氏が教示してくれた写真の中に、「昭和17年8月19日 廬山林間学校 道場にて」 という説明のあるものがある。彼の説明によれば、姉を含めた九江小学校の生徒たちが廬山に一ヶ月ぐらい、林間学校に行っていた時に写した写真であるという。
 廬山は有数の避暑地であり、九江の町は廬山の登り口であった。写真を仔細に見ると、 生徒は54人、教員や父母・軍人が22人写っている。階段の下にいる11名の大人は、教師など学校の関係者であろう。階段の上部にいる11名の大人の中には、軍服姿が5人いる。幼児を抱いた女性もいるので、こちらは児童の父母や警備を担当する軍人たちであろうか。1、2年生のまだ幼い生徒はいないようである。おそらく3年生以上の生徒であろう。教師の中に女性もいた。廬山の林間学校の道場で撮影したものである。

 この写真と符合する新聞記事を見つけたので、それを紹介する。

 一山の顔役 半日本人 輸血で結ばれた日独親善秘話
(中略) 現在、彼の管理下にある外人邸宅は百三戸で、学校二、病院二、倶楽部二、プール、農園、図書館はすべて皇軍に委ねてゐる。アメリカンスクールには、夏季林間道場が開設され、百八十余名の日本人少年少女による大集団生活が中国民衆の目をそば立てせ、体育錬成に登山する日本人客は、山の駕籠を連日、満員にさせてゐる。
《大陸録音》欄、『大阪朝日中支版』 1942年8月8日

写真

昭和17年8月19日廬山林間学校 道場にて
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 上掲の記事の時期、および内容が写真と一致している。まず廬山には欧米人の別荘が103戸あった。英米人がすでに廬山から退去してしまったので、残ったドイツ人某がそれらを管理していた。別荘以外にも、欧米人は学校、病院、クラブ、プール、農園、図書館を設置していた。小さいけれども、廬山の別荘地帯は欧米人の暮らす町となっていた。
 記事によれば、以前のアメリカンスクールの建物を利用して、「夏季林間道場が開設され」る。そこで、180余名の「日本人少年少女による大集団生活」が行われたという。氏本氏の説明では、林間学校は1ヶ月もの長期に及んだという。九江小学校の生徒は54人であった。残りの130人ほどの生徒は、別の日本人町からやってきたのであろう。
 子どもの人数はかなり多い。一ヶ月間も、子どもを林間学校にやれば、当然、親は相当の金銭的な負担をせねばならない。それが可能だったのだから、有力者であった氏本氏の家庭だけでなく、九江の日本人町にいた在留日本人はかなり豊かな経済力を持っていた。このような企画が立てられ、かつ、実行できたのであるから、九江の日本人は一般にかなり豊かであったことになる。

中国戦線に形成された日本人町に移住してきた在留日本人は、経済的にはかなり恵まれた生活を送ることができた。もちろん、周囲の中国人の犠牲の上に、そういった恵まれた生活水準が維持されたのであるが。

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 【6】 姉が南京の高等女学校に進学

地図 漢口 九江 彭沢 南京

地図 漢口 九江 彭沢 南京
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 氏本靖彦氏には、年の離れた姉がいた。九江日本人町は小規模だったので、高等小学校しかなく、上級学校である高等女学校はなかった。経済的に余裕があったので、彼女は南京の高等女学校に進学する。九江と南京は、長江でつながっているが、相当離れている。
 遠距離をものともせず、姉は南京に行き、一人で寄宿舎に入って、通学する。学校の休暇には、汽船に乗って、九江の親もとに戻ってくる。戦争中ということもあって、長江航路の汽船は、武器弾薬・食糧がぎっしり積みこまれ、また、ヒゲ面の兵隊で満たされていた。
 その中を15歳ぐらいの娘が一人で船旅をする。中国軍は長江を航行する日本側の汽船を攻撃するような空軍力を持っていなかった。だから、長江の船旅の危険性はまだ低く、少女が一人で、南京と九江を往復できたのである。年端もゆかない娘が、一人で戦争のさなか、九江と南京を汽船で往復する。また、南京の日本人町で寄宿舎に入って高等女学校に通う。これも、日中戦争時、在留日本人が行った諸活動の一つであった。

  敗戦後、中国は国際条約を遵守し、日本軍の捕虜と在留日本人を道義的に扱い、早期に日本に帰国させた(中国戦線からの引揚者は、軍人・軍属が104万人、民間人が49万人であった。)。中国のこの時の措置は称賛されるものであった。日本は戦争で負けただけでなく、道徳的にも中国に遠く及ばなかった。在留日本人は資産をすべて没収され、リュックサック一つで引き揚げねばならなかったが、しかし、生命を損傷されることはなかった。
 九江にいた日本人民間人は、みな、九江の東方に位置する彭沢(ほうたく)という町に移住させられ、そこで帰国の日を待った。氏本靖彦氏は、1946年にこの彭沢で生まれた。地上戦に巻き込まれた満州国の場合だったならば、敗戦直後に生まれた新生児を待ち受けた運命は過酷なものであって、ほとんどの新生児は無事に帰国できなかったであろう。しかし、氏本靖彦氏の場合、中国の道義にかなった扱いによって、無事に帰国できた。なお、以前、この彭沢に内陸部では初の原子力発電所を建設する動きがあった。しかし、フクシマの事故後、この計画は中止となった。
(2012年12月17日)

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