シリーズ 戦争を考えるための遺跡12
『終戦前日8月14日春日井に投下された模擬原爆』 ピースあいち研究会 金子 力



 1945年7月26日名古屋市昭和区八事日赤病院近くに模擬原爆を投下したのは、機体番号から広島にリトルボーイを投下した「エノラゲイ」と名付けられたB-29であったことは前に紹介しました。原爆投下部隊509混成群団が日本本土上空で投下した模擬原爆パンプキンは49発です。そのうち8発が愛知県内に投下されています。これは投下地18都府県中で最多です。名古屋市以外の投下地は春日井市(4発)と豊田市(3発)でした。ただし、この7発は広島、長崎への原爆投下後のことであり、しかも終戦前日の8月14日の午後のことでした。保有していた2発の原爆を使いきった後のパンプキンの投下―このことは一体何を意味するのか、いくつかの推測が飛び交いました。   

朗読会

模擬原爆パンプキンの実物大模型(正面)は大津市から2012年3月に開館した「滋賀県平和祈念館」に移動していました。2012年3月撮影

 ア 戦争終結寸前の駆け込み爆撃という説。 
 イ 3発目の原爆投下を目的とした訓練説。
 ウ 戦後のソ連を意識したアメリカの核戦略という説。
など議論が続きましたが、いずれも推論でしかありませんでした。

 この問題に決着をつけたのは工藤洋三氏と奥住喜重氏でした。お二人は、日本の国会図書館が所蔵していない資料を、米国公文書館やマックスウェル空軍基地で公開されていることを知り、入手翻訳して出版します。春日井の戦争を記録する会が発掘した資料は「結果としていつ、どこに、何を、いくつ投下したのか」がわかる資料でした。お二人の著書『米軍資料 原爆投下報告書』(1993年)には、投下目標の選定、決定された投下地、最終的に投下した場所などが出ています。さらに、『509混成群団作戦計画の要約』(1994年)には、原爆投下部隊509混成群団による攻撃任務は、
①原爆投下を成功させるための実践訓練(7月20日・24日・26日・29日・8月8日)
②模擬原爆パンプキンそのものを攻撃兵器として使う(8月14日)
③本来の任務の原爆投下(8月6日・9日)
の3つがあったことが紹介されています。 


山田昌さん

8月14日模擬原爆パンプキンの投下目標となった名古屋陸軍造兵廠鳥居松製造所跡に建てられた慰霊碑(春日井市王子町) 碑には3月25日と8月14日の鳥居松製造所関係者の空襲犠牲者名が刻まれています。

 8月14日の春日井と豊田への投下は、原爆投下訓練と違った意味があったのです。そう言えば、春日井の戦争を記録する会が模擬原爆パンプキンと出会うきっかけになったのは、国立国会図書館憲政資料室にあった『米国戦略爆撃調査団報告書』でした。全108巻ある報告のうち91巻は「日本の目標に対する10,000ポンド爆弾の効果(9例)」でした。この報告書は日本に投下された模擬原爆パンプキン49発のうち、着弾地の判明した9か所15発について、米国戦略爆撃調査団が現地で着弾地の特定、被害状況の調査を行ったもので、複数の方角からの写真撮影、正確な測量図、日本側が出した被害報告などの貴重な資料が含まれています。総数325ページの報告書のうち181ページが8月14日の春日井・豊田関係でした。

 原爆投下訓練用に開発したパンプキン爆弾は、巨大な爆風を起こしました。福島県渡利に投下されたパンプキン爆弾は、阿武隈川を越え福島県庁の窓ガラスを割るほどの威力でした。春日井にあった名古屋陸軍造兵廠鳥居松製造所に投下された3発のパンプキン爆弾は、3つの大きなクレーターを残していました。敗戦後の8月30日に米軍偵察機が撮影した写真には、吹き飛ばされた土や飛び散った破片が水田のあちこちに痕跡を残していました。


山田昌さん

鳥居松製造所をねらって投下したパンプキンは北側に隣接する入ヶ島の水田に着弾、鳥居松製造所から中央線を越えて避難中の女子工員4人と住民3人が犠牲となりました。破片が突き刺さった家屋は火災が発生し、左側部分を除いて焼失した様子が写っています。工藤洋三氏提供

 原爆投下用に開発されたパンプキン爆弾は通常兵器として効果があるのか、超大型の爆弾による被害を調べるために米国戦略爆撃調査団の調査チーム9人が10月25日から28日まで鳥居松を訪問しました。その結果は、「総重量で1万ポンド分の爆弾をたくさんの小型爆弾が落とされた場合、1発の1万ポンド爆弾が投下されたよりも、生産に対する被害はもっと大きかった」と評価しています。これ以降、パンプキン爆弾は使用されることもなく、機密保持のためテニアン島の沖合に海中投棄されたといいます。