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「戦争中の新聞等からみえる戦争と暮らし」  ◆釜山北京直通列車による鮮魚の輸送
愛知県立大学名誉教授  倉橋 正直



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新聞(部分)

『大阪朝日北支版』 1938年9月18日
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 【1】 日本人は魚料理が大好き

 日中戦争時、中国戦線(満州国・関東州・台湾および香港を除く)に、多くの日本軍の将兵と在留日本人(民間人)がやってくる。敗戦後、中国戦線から引き揚げてきた軍人・軍属が104万人、民間人が49万人であった(厚生省援護局編『引揚げと援護三十年の歩み』、1977年、690頁)。したがって、敗戦のころ、合計150万人ぐらいの日本人が中国戦線にいたことになる。今回は、彼らの食事を問題にする。なお、彼らが主食として食べた朝鮮米のことは、のちに扱うことにする。
 日本人町にいた民間人は、おもに軍隊にぶら下がって、生計を立てた。軍部は、彼らに日本軍の兵隊のいわば「福利厚生」を担当させた。戦争は長く続いた。戦場に長期間、「張りつけにされ続けた」兵隊たちは、心身ともに疲弊する。そこで、彼らを最寄りの日本人町に順番に派遣して、気分転換させた。
 兵隊は宿泊を許されなかったので、日帰りで、あわただしい休日であった。それでも、兵隊たちは喜んで日本人町へ出かけた。日本人町で、兵隊たちは、「おいしい料理を食べ、酒を飲んで騒ぎ、そして、買春をした。」日本人町の日本人商人が兵隊たちに提供した「福利厚生」の中心は、飲食と売春であった。 兵隊たちが求めたごちそうは、中国料理ではなく、日本料理であった。日本料理の中でも肉料理はあまり人気がなかった。というのは、当時、日本人には肉を食べる習慣があまりなかったからである。兵隊たちの求めたごちそうもさかな料理であった。中国戦線の日本人町では、生きのよい鮮魚が求められた。塩蔵したり、干物にした魚は歓迎されなかった。
 兵隊たちの求めるごちそうは、天婦羅と日本酒と刺身であった。

 おでん屋の話ではないが、何んと云っても当るのは、食ひ物商売である。やれ戦争だ、やれ支那兵だと云ふときには、梅干と握飯で飢えを凌ぐ兵隊さんでも、後方に居るときは、矢張り人間である。天婦羅も喰ひたいし、日本酒を刺身か何かで一杯やりたくなる。これが人情であるから、料理屋だとか、飲食店だとか、或ひは宿屋、余まり勧められないが、若い女を十数人置いてやる水商売等々は、当たればボロい商売である。
高木陸郎編『北支経済案内』 1939年3月 今日の問題社 322頁

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 【2】 釜山北京直通列車の運行

 てんぷら、すし、刺身は、いずれも海産の鮮魚が材料になる。とすれば、中国戦線で戦う日本軍の将兵のために海産の鮮魚を提供せねばならなかった。まとまった量の海産の鮮魚は日本内地にしかなかった。やむなく日本内地に鮮魚を求めることになった。戦争中にもかかわらず、この困難な事業が実現される。それが釜山北京直通列車の運行であった。中国戦線にいる日本軍の将兵と在留日本人に供給するために、1938年10月1日から、釜山発、北京行きの直通列車をしたてて、瀬戸内海の鮮魚を中国に輸送した。

 瀬戸内海の鮮魚 大陸特急で食卓に 北京人の味覚に朗報  (中略)続々、発生のコレラのために、生魚の輸入が全然とだえてゐたが、九月に入って、断えざる市衛生局の不眠不休の防疫に依って、新発生を発見せざる有様となったので、逐次、各地海岸より生魚の移入が始まるだらうと予想され、一般人の食慾をそそってゐたところ、更に十月一日より釜山北京直通列車が開始されることとなり、また、瀬戸内海の新鮮なる生魚が続々と北京入りをして、食卓をにぎはすことになり、秋の食料品問題も、ややこれで一段落。
『大阪朝日北支版』 1938年9月18日

 生きの良い鮮魚が、釜山から僅か二昼夜で、天津に来るやうになった。ものすべての往来は、すべからくこの魚の如く、溌剌新鮮であることだ。(天津)〔大陸録音〕
『大阪朝日北支版』 1938年11月12日

 釜山から天津まで、「僅か二昼夜で」で来るようになったとしている。素人の眼からすると、下関港から、直接、船便で天津港まで鮮魚を輸送したほうが能率的のように思われる。鉄道便に比べ、船便のほうが、はるかに大量の鮮魚を運べる。しかし、港湾施設が不備だった場合、港での積み下ろし作業に時間がかかった。あえて鉄道便を利用したのは、天津港の港湾施設の未整備という事情があったのかもしれない。

 華北交通会社(略称は北交)は、日中戦争の時、日本が華北地方に作った鉄道会社である。満州国・関東州にあった満鉄が、日本軍の占領地域の拡大に合せ、華北地方に進出してきたものである。だから、実質的には満鉄の華北地方版であった。

 新鮮な魚菜運ぶ 新造冷蔵車 多数到着 奥地ゆきも大丈夫! 【北京特信】夏季を控へて華北交通へ新造冷蔵車が多数到着。この夏は冷凍魚や鮮魚、野菜、生果の新鮮なところをどんどん運んでくれるといふ、台所を預かる主婦にとって嬉しいニュース―――(中略) これで、北支の冷蔵車は一躍、昨年の約二倍の数量に充実したことになり、(中略) 試験の結果によれば、三十四度(摂氏)の温度で、氷三頓で百時間保つといふから、北支内はどこまで送っても、大丈夫といふ優秀車である。
『大阪朝日中支版』 1941年5月29日


 次も冷蔵車の性能に関するものである。冷蔵車の需要はどんどん増えて、1942年6月には、「最新式冷蔵車が四十輌」にもなっていた。

 奥地へ新鮮な魚菜を 冷蔵車が目覚ましい活躍  【北京特信】 (中略)華北交通には現在、最新式冷蔵車が四十輌あり、別に同社保有の冷蔵車、通風車があり、生物輸送陣は著るしい充実を見せてゐる。すなはち暑気の来襲とともに、各線にわたり、活躍を開始したが、中でも(中略)   鮮魚輸送などに目覚ましい活躍振りをみせてゐるが、新造冷蔵車は氷四トンを乗せて、青島を出れば、太原、包頭まで一気に悠々走れる優秀車で、夏でも包頭、太原で『おさしみ』に舌鼓を打てるといふわけであるが、
『大阪朝日北支版』 1942年6月11日

 青島を基点にして、遠く離れた山西省の太原や包頭まで鮮魚を運ぶことができ、おかげで太原や包頭でも、サシミがおいしく食べられるという。ちょっと眉ツバの話のように思われるが、案外、事実だったのかもしれない。ただ性能だけからすれば、このようにいえると受け取っておくべきであろう。実際には太原や包頭に通ずる鉄道は頻繁に中国側の妨害工作にさらされていた。だから、時刻表通りには鉄道を運行できなかった。鉄道が攻撃を受け、運行が遅滞すれば、優秀な冷蔵車も役に立たなかった。

 鉄道便を使って、新鮮な魚介類を北京に運び込むのは、瀬戸内海でとれたものだけにとどまらなかった。渤海湾でとれたエビも輸送している。華北交通会社が運営する京山線北塘発、北京行きの列車に冷蔵車をつけ、エビを北京まで運んだ。一日に20トンから30トンのエビを発送した。大量のエビを北京に運び込んだ結果、北京のエビの価格が下落したという。

 廉く美味しく 食膳に鮮魚を 北交で輸送方法研究  『大阪朝日中支版』 1939年5月27日 
 日を逐うて累増する北支の在留邦人の御膳に、安価で新鮮な食料品を供へさせようと、華北交通会社では、これから日常必需品の輸送に万全の策を講じ、先月末、京山線北塘発北京行の海老に冷蔵車の使用を開始したが、その成績、頗るよく、荷動きは日に日に増加、一日二十瓲  から三十瓲の発送を見て、北京の市価も諸物価の昂騰とは逆に、一匹三銭内外の安価で売買され、食卓には新鮮な海老が豊富に供給されてゐる現状にある。
『大阪朝日中支版』 1939年11月4日

 北京の日本人町は、鮮魚類の一大消費地であった。

 一日一万円のお魚  北京在留邦人のお腹に入る  北京十万邦人の台所をひきうける
 中央卸売市場会社は、資本金五十万円、社長は横川元民団助役で、市場は東城の船板胡同にひらかれてゐる。 (中略) 市場は今のところ鮮魚類だけしか取扱ってゐないが、おそくも本年の夏までには、新たに市場の新築移転を行ひ、生果、蔬菜類その他にも手をのばすことになってゐる。鮮魚の取扱量は現在一日平均五トン半、金額にして一万円程度だが、今後、市場の拡張にともなひ、逐次、激増の途をたどるものと見られてゐる。
『大阪朝日北支版』 1942年2月28日

新聞(部分)

『大阪朝日北支版』 1942年6月11日
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 まとめてみるとー
 釜山北京直通列車の運行は1938年10月1日から始められた。この時点で、戦争が始まってから、すでに1年3ヶ月たっていた。日中戦争が長期戦になることが予想された時期であった。長期戦を見据え、鮮魚の安定した入手をもくろんだものであった。戦争中なので、遠洋漁業は行われていない。瀬戸内海や玄界灘などの近海でとれた魚介類が下関港に集められた。下関港に集められた魚は関釜連絡線で、釜山に送られる。釜山で、それらの魚は釜山北京直通列車に積み込まれる。

 魚は鮮度が命である。釜山北京直通列車には魚を運ぶために、特別に何輌かの冷蔵車がつけられ、大量の氷が積み込まれ、氷で魚を冷やした。

 釜山で鮮魚を冷蔵車に積み込み、一路、北京を目指す。しかし、北京は相当遠く、鉄道では北京まで二昼夜かかった。その間、列車は何回も路線を変えた。はじめは朝鮮鉄道を北上する。安東(現在の丹東)から、「満州国」に入る。満鉄線の安奉線に変わる。奉天(現在の瀋陽)から、同じ満鉄線の奉山線で山海関までゆく。山海関で万里の長城を越え、中国戦線に入る。京山線に変わる。天津を経て、最終目的の北京にやっと到着する。
 当時の低劣な冷蔵技術では、二昼夜の運転は限界に近かったのではなかろうか。また、北京からさらに西方や南方に向かう路線は、中国側のゲリラからしばしば攻撃を受けた。その結果、必ずしも安定した補給路となっていなかった。だから、北京までは迅速に運び込めた瀬戸内海産の鮮魚を、さらに西方や南方に鉄道輸送してゆくことは困難であった。釜山北京直通列車の恩恵を受けたのは、天津と北京にほぼ限られた。

では、釜山北京直通列車は、一回でどのぐらいの量の鮮魚を運んだのであろうか。冷蔵用の氷は途中で補給したのか。列車はどの程度の頻度で送られたのか。すなわち、毎日、送り出したのか。それとも、数日おきの出発だったのか。―――わからないことだらけであるが、とにかく、瀬戸内海でとれた鮮魚が、鉄道便で北京に届けられた。おかげで、北京にいた日本人の軍人と民間人は、鮮度が保たれた海産の鮮魚を食べることができた。

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 【3】 船便などでも運び込んだ

 済南は山東省の省都で、重要な軍事拠点でもあった。ここへの輸送には天津からの鉄道便(津浦線)を使っていない。天津から済南に通じる津浦線はしばしば攻撃を受け、運行が安定していなかったからである。船便で二昼夜かかって、日本内地から鰤(ブリ)やマグロを青島港に運び込み、それから、山東鉄道(膠済線)を利用して済南まで運んだ。

 記事は、長い距離を運んできた鰤やマグロをありがたがってはいけない。済南付近でとれる淡水魚を食べろといっている。しかし、日本人は、現地でとれる淡水魚には目もくれず、たとえ古くなっていても、また値段が割り高であっても、内地からわざわざ運んできた鰤やマグロのほうをありがたがって賞味した。なお、「黒魚」とは雷魚のことである。

 鯉、鮒、エビ、黒魚、スッポン等等、済南には済南の名物がある。船で二昼夜、汽車で百里の遠道をコトコト運んで来た鰤やマグロを、なんで食膳に上すんだらうと、旅行者は皆、料理屋や旅館の不食通を不審がります。(済南)〔大陸録音〕
『大阪朝日中支版』 1939年2月22日  

 済南日本商工会議所発行『済南事情』(1939年6月)によれば、済南の日本人町には3軒の鮮魚商があった(「商業 四、中外各種主要商店 9、日本主要商工人名録」、236頁)。青島港から送られてきた海産の魚介類や、済南付近で取った淡水魚を在留日本人相手に売っていたのであろう。

 近海の魚が豊富に取れる青島でさえ、「日本から古くて高い魚を取り寄せ」ていた。

 チヌ、エビ、ヒラメ、縞鯛、コハダ、イカ等々、青島近海で獲れる新らしい魚を、このごろ、寿司、飲食店で使ってゐる。傾向、大いによろし。日本から古くて高い魚を取り寄せ、間違った自慢をする旧式料理店は右に倣へ。(青島)〔大陸録音〕
『大阪朝日中支版』 1939年6月29日

 揚子江(長江)流域の大都市、たとえば上海へは、船便で直接、鮮魚を運びこんだ。清津(せいしん)は、朝鮮の日本海側で最も北に位置する港町である。このあたりで獲れたイワシが、はじめて三菱商事の手で、下関経由で上海へ輸出された。この例のように、上海へは日本内地から船便で、大量の海産物が送られた。

 清津から上海へ 塩鰛(いわし)を初輸出 水産物進出の魁け  (中略) 今度は特産塩鰮がはじめて同地に向けて出荷され、関係方面をアッといはせてゐる。(中略)  このほど便船で塩鰛千函(価格七千五百余円)が三菱商事の手で、下関経由、上海へ輸出されたのである。
『大阪朝日中支版』 1939年11月5日

 南京在留日本人は「わざわざ内地産の高価な古い魚を食ってゐ」た。内地産の鮮魚は、鉄道便ではなく、上海から揚子江(長江)の河川交通を利用して運ばれた。南京はやや内陸部に位置したから、送られてきた内地産の魚介類は、たしかに古くて、また高価だったことであろう。

 中支の魚
 現地にある邦人は、現地産の魚類を副食物とすることを嫌ふ向が多い。これは調理の方法も不可解だし、中毒症を起こす憂があるため避けてゐるので、そのため、わざわざ内地産の高価な古い魚を食ってゐることになる。
 軍では研究の結果、兵食上、重要視してゐるが、一般邦人も、高くて古い内地産魚類を常食するよりも、安くて無限にある現地産の魚類を、副食物として調理の研究を行ふことが、物価高に悩まされてゐる今日、相当重要なことと考へられる。
南京日本商工会議所発行『南京』  1941年9月 上海 682頁

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 【4】 釜山北京直通列車の運休

  釜山北京直通列車が敗戦の時まで、ずっと運行されていたとは考えられない。同直通列車の運行は、戦局に左右された。戦局が不利になるに従い、鉄道輸送に余裕がなくなってゆく。鉄道輸送は、兵員・武器弾薬、および糧食といった、戦争遂行の基幹となるものに集中せざるを得なくなる。それ以外の人員や物資の輸送は、いわば不急不要と見なされ、次第に排除されてゆく。
 鮮魚を、釜山から、はるばる北京まで運んでゆく釜山北京直通列車の運行も排除されていった。戦争中にもかかわらず、日本内地産の鮮魚を、中国にいる日本人に食べてもらおうという企画は、不利な戦局に適合しなかった。単純にいえば、日本内地産の鮮魚は「ぜいたく品」と見なされてゆく
 釜山北京直通列車がいつ運休になったかは、わからない。朝鮮の釜山から北京までの鉄道は、戦争末期になっても、比較的きちんと運行されていた。 問題は下関と釜山を結ぶ関釜連絡船であった。アメリカ軍の空襲と潜水艦の攻撃によって、関釜連絡船も次第に安全を保てなくなる。
 1944年に入ると、同直通列車の運行はもう難しくなったであろう。したがって、釜山北京直通列車が運行されたのは、1938年10月から、1944年初めぐらいの時期に限られた。通算すると、5年間ぐらいの時期、運行されたのではなかろうか。 主に上海向けの船便による輸送も、ほぼ同じ時期に中止されてゆく。アメリカ軍の潜水艦の活発な活動によって、船舶航行の危険が増大してくる。鮮魚を日本内地から、船便で中国戦線に運ぶ余裕はますます少なくなる。こうして、1944年に入ると、鉄道便および船便の双方で、日本からの鮮魚の輸送はほぼ止まる。彼らの食卓から、鮮魚を使った料理が消え、再び、味気ない食生活に戻ってしまったのは、やむをえないことであった。

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 【5】 兵隊へのサービスであった

 それでは、誰が、何のために、釜山北京直通列車を運行したのであろうか。
 「アメリカ兵は塹壕でアイスクリームを食べられる。」と象徴的にいわれるように、アメリカ軍には、前線で戦う兵隊の兵站を重視するという伝統があった。これがアメリカ軍の安定した強さの基礎となった。一方、日本軍は伝統的に兵站を大事にしなかった。前線で戦う兵隊は粗略に扱われた。もし、日中戦争の規模が小さく、また、短期間で終息していたならば、軍部はこの「あしき」伝統に基づき、いつものように兵隊の兵站を粗略に扱ったことであろう。
 ところが、現実には日中戦争は、日本の歴史始まって以来の大戦争になってゆく。未曾有の大戦争を戦い続けてゆこうとすれば、100万人の兵隊の不満を、そのまま放置してはおけなかった。条件が許せば、兵隊たちの要望の一部は受け入れ、大掛かりで、面倒な事業を行ったのである。それゆえ、送られてきた鮮魚が一部の将校だけに独占的に供せられたのでは意味がなかった。あくまで、一般の兵隊たちにまで広くゆきわたる必要があった。したがって、釜山北京直通列車による鮮魚の輸送は、軍部による兵隊たちに対するサービスであった。
 兵隊たちにサービスするために、軍部は、わざわざ瀬戸内海の魚を釜山に送り、釜山北京直通列車をしたてて、北京・天津に送りとどけたのであった。元来、兵站を軽視した軍部も、例外的にこのような大掛かりな事業を行ったのである。(2012年9月17日)

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