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「戦争中の新聞等からみえる戦争と暮らし」  ◆在留日本人のゾンザイな振る舞い
愛知県立大学名誉教授  倉橋 正直



新聞(部分)

『大阪朝日北支版』 1940年6月14日
(【5】領事館警察による風紀取締週間 で紹介されている記事です。)
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 【1】 戦勝におごる在留日本人

 日中戦争時、中国戦線(満州国・関東州・台湾および香港を除く。)に多くの日本人(民間人)が移住した。彼らは、既存の中国の都市の一角に集中して居住した。日本人が集中して住んだので、その地域を日本人町と呼んでおく。日本人町は、華北を中心にして200ぐらいあった。日本人町には日本人が圧倒的に多かったので、日本語だけで生活できた。中国語を知らなくても、生活は別に困らなかった。日本人町では女性が4割を占めていた。日本人の多くは結婚しており、子どもも連れてきた。 

 日本人町には中国人も住んでいた。たとえば、中国人の中には、家事を手伝う「お手伝い」として、日本人家庭に雇われるものもいた。彼女たちは、中国語に由来する「アマ」(阿媽)と呼ばれた。また、日本人商店の店員として、多くの中国人男女が雇われていた。中国人は軍事占領下の住民として、なるべく目立たないように、控えめに暮らしていた。

 日本人町の治安は、日本軍と領事館警察が担った。領事館警察は、中国にある租界(そかい)などに以前から設置されていたもので、在留日本人を取り締まった。この領事館警察(しばしば領警と略称された。)が、日中戦争期、中国戦線に形成された日本人町にも設置され、在留日本人を取り締まった。

 中国戦線にやってきた日本人は、以前、内地で従事していた仕事・職業を、中国でもそのまま続けた。この結果、日本人町の状況は内地の町によく似たものになり、日本人は、あたかも内地に住んでいるかのような気持ちになった。中国という「外国」で暮らしているという現実を忘れがちであった。その上、「戦勝国」の国民であるという「おごり」の意識が加わり、往々にして周囲の中国人を見くだした振る舞いをした。

 本稿では日本人町に暮らす在留日本人が、戦争中どのように振る舞ったのかを見てゆく。


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 【2】 泥酔

 はじめは泥酔である。日本人は大量に飲酒した結果、往々にしてまちなかで泥酔状態になり、醜態をさらした。それに対して、中国人は決してひと前では泥酔しなかった。たとえ、大量に飲酒しても、ひと前では決して乱れなかった。泥酔状態を人目にさらすことは、甚だ無礼なことであると認識されていたからである。

 日本人は、内地にあっては、しばしば泥酔し、まちなかで醜態をさらした。当然、人々のひんしゅくを買ったが、しかし、日本では伝統的に酒の上の失敗・醜態は大目に見られ、許容された。

 この習慣や意識が、中国戦線の日本人町にそのまま持ち込まれる。在留日本人の中には、内地に居た時と同じように、大酒を飲み、泥酔し、まちなかで醜態をさらすものが多かった。日本人同士では、これは問題にならなかった。しかし、周辺に居る中国人は違った。彼らは、ひと前で泥酔し、醜態をさらす日本人を見て、びっくりする。面と向かっては言わないが、心の中で、そういった日本人を軽蔑した。要するに、礼儀をわきまえた、まともな人間ではないと、泥酔者を嫌悪した。

 そういった中国人の気持ちがわかるので、憲兵隊や領事館警察は、在留日本人に対して、泥酔するなとしきりに戒めた。しかし、彼らの警告にもかかわらず、在留日本人の習慣はなおらなかった。在留日本人は、中国人の目がふれるところで、しばしば大酒を飲み、泥酔し、醜態をさらし続けた。


 青島では、一日平均二人の泥酔暴行者が領事館警察に留置された。

 国民精神総動員で、大いに緊張せねばならぬ時期であるのに、最近、領警へ留置さるる泥酔暴行者が一日平均二人宛とは、ユル褌(ふん)も甚だしく、そとさまへ対して、甚だ相済まぬ次第。酒に呑まれぬ呑み方をしたら、どんなものです。(青島)〔大陸録音〕
『大阪朝日北支版』 1938年12月21日


 北京で、天長節、すなわち天皇誕生の祝日の夜、百人以上の日本人が「泥酔、乱暴その他で」、拘留された。

 さる四月二十九日の天長節の夜、泥酔、乱暴その他で、憲兵隊、領警に拘留された邦人不届者が、なんと百人以上。大陸発展の根拠地北京に、五日、日本人の自粛自戒が今さらのやうに唱へられてゐる。(北京)〔大陸録音〕
『大阪朝日中支版』 1939年5月4日

 天津でも、「酔払いの乱暴者たち」が「めっきり多くなった」。

 最近、酒を飲んでは乱暴を働く日本人がめっきり多くなったが、こんな輩はよろしく酔払ってゐるうちに、白河へ投げ込んでしまう方がよからうではないかといふ声が高いです。酔払ひの乱暴者たちよ。ご注意、肝要デスぞ。(天津)、〔大陸録音〕
『大阪朝日中支版』 1939年11月4日

 本来、泥酔や乱暴狼藉を取り締まるべき領事館警察の巡査が、泥酔のあげく事件を起こした。巡査は天津で深夜、通行中の日本人と中国人に乱暴の限りをつくす。さらに彼は酔った勢いで、カフェの寄宿舎に押入り、女給はじめ三、四名に重軽傷を負わせた。

 通行の日支市民や女給寄宿舎を襲ふ 泥酔の領警巡査大暴れ
(中略)天津日本総領事館警察署管内の一巡査が、二十四日未明、泥酔の揚句、日本租界とフランス租界の境界線附近で、通行中の日支人に乱暴の限りをつくし、さらに蓬莱街新興カフェ寄宿舎に押入り、女給はじめ三、四名に重軽傷を負はせた事件があり、時局をわきまへぬ警察官の乱暴沙汰に、居留民の多くは憤慨してゐる。
『大阪朝日中支版』 1939年11月4日

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 【3】 車夫を殴る

 当時、都会では人力車が最もよく利用される簡便な交通機関であった。在留日本人も人力車をよく利用した。人力車をひくのは中国人であった。ほとんどの日本人は中国語が話せなかったから、車賃の多寡で、中国人の車夫といさかいを起こしがちであった。車夫ともめ始めると、日本人は問答無用とばかり、車夫をなぐりつけた。

 軍事占領下にある悲しさで、中国人車夫は抵抗もできず、すごすごと引き下がるしかなかった。「無理が通れば、道理が引っ込む」の例え通りのひどい状況がまかり通った。次の史料が伝えるように、若い日本人娘まで、中国人車夫の「親爺を怒鳴りつけ」ていた。

 日本娘が洋車の親爺を怒鳴りつけたり、八百屋の小僧に駄々をこねたりしてゐる図は、あまり見よいものではない。日本の女性は淑やかで優しく、しかもきりっとしてゐるのが、昔から定則ではないかね。支那娘に負けますぜ。(北京〔大陸録音〕
『大阪朝日北支版』 1938年6月28日

 「車夫と車賃の争ひ」は、街頭で頻繁に見られる光景であった。戦勝におごった在留日本人は、中国人車夫をむやみやたらになぐっていた。

 三つ十銭の柿が高いといって、支那人の柿売りを殴り、治療費金五円也を弁償させられた男がゐる。車夫と車賃の争ひ、また然り。戦勝におごる勿れ。新生中国の民を愛せよ。(青島)〔大陸録音〕
『大阪朝日北支版』 1938年11月2日

 次の史料は、中国人車夫などをむやみになぐる日本人を、「何とも情ない不良邦人どもである。」と評している。

 電報配達夫や洋車挽を、日本人が殴る事件がちょくちょくある。何とも情ない不良邦人どもである。(北京)〔大陸録音〕
『大阪朝日中支版』 1939年2月26日

 とにかく日本人は中国人車夫をよくなぐった。北京で憲兵隊が取り扱った、車夫をなぐった日本人は、1939年4月末の一週間で数十名に達したという。こういった状況を憲兵隊は憂慮する。

 「いろいろと取調べたところ、いづれも大した問題ではなく、是非なぐらなければならぬといふほどのことはなく、」というのが憲兵隊の調査結果であった。憲兵隊の調査結果は、たぶん妥当であろう。「さらに一層厳重な態度で、邦人不道徳者を取り締る方針をたて、断乎たる処置をとるといってゐる。」とあるように、憲兵隊は車夫を殴りつける日本人を取り締まった。しかし、日本人がささいな理由で中国人車夫を殴りつける風潮は、その後もあとを絶たなかった

 殴らなくても 洋車夫でも痛いぜ 【北京特信】
 酔っ払った邦人が街角で洋車夫をなぐってゐる。『支那人といふものは、なぐらなくては、いふことをきかないものだ。』といふ間違った観念をまだすてられないのか、それとも酔ったまぎれに、戦勝国民の誇りを間違った方法で、発揮しようとするのか。日支親善の叫びも、巨費をかけた親善運動も、この不注意な拳固の一つ一つでこはされてゆく。
 憲兵隊では領事館警察と協力して、これら不徳漢を取締るべく、かねてから邦人の注意を促してゐたが、まだその跡を絶たず、さる四月二十四日から同三十日までの間に、憲兵隊で取扱った非行者は数十名に達して、係官を憂鬱にしてゐる。
 いろいろと取調べたところ、いづれも大した問題でなく、是非なぐらねばならぬといふほどのことはなく、ほんのちょっとした動機で、相手が支那人であるといふことだけで、手をあげた程度で、少し慎めば、そんな見苦しいことをしなくても済む問題であり、これらの行為が重なってゆけば、結局、かれらは邦人を憎むとともに、なぐられなければ、いふことをきかぬといふ習慣をつけてしまふおそれもあり、憲兵隊ではこの際、さらに一層厳重な態度で、邦人不道徳者を取締る方針をたて、断乎たる処置をとるといってゐる。
『大阪朝日中支版』 1939年5月14日

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 【4】 服装・身だしなみの乱れ

 「戦勝国」の国民であるという在留日本人の「おごり」は、服装や身だしなみの乱れとして現れた。旅館のドテラを着込んで、天津神社に参拝した者がいたという。内地でも、こういった行為は非難される。「戦勝国」の国民だから、多少の無作法も許されると思ったからであろう。

 「国民精神総動員実践事項を体して、天津神社にお参りするのは、もとより結構だが、旅館のドテラを着込んで参拝するのは、おやめ下さい。(天津)〔大陸録音〕
『大阪朝日北支版』 1938年10月20日

 在留日本人の中には、「寝巻のまま、白昼、大道をカッポするやうなひと」がきっと、いたのであろう。

 年も新しい。サア、心を引締て、軍の努力に並行し、長期建設の一助ともならん心掛けが必要。寝巻のまま、白昼、大道をカッポするやうなひとは、済南にはゐないでせうな。(済南)〔大陸録音〕
『大阪朝日中支版』 1939年1月15日

 可能ならば、夏の夕方、「サラリッとした浴衣がけの素足に下駄をひっかけて」、北京の王府井の盛り場に出かけたいものだといっている。

 北京の夏もいよいよ120度。夕方ともなれば、サラリッとした浴衣がけの素足に下駄をひっかけて、『王ブラ』でもして見たいが、この純日本的姿で外出は罷りならぬ。檻の熊みたやうに猫の額の庭先をブラブラして辛抱するさ。(北京)〔大陸録音〕
『大阪朝日中支版』 1939年7月21日

 真夏になると、在留日本人の「だらしない浴衣姿が横行」した。

 盛夏になると、まづ服装からゆるむ。一部在支邦人のだらしない浴衣姿が横行する。――これでは興亜のリーダーとして新中国大衆の尊敬を受けられんよ。――と河野特務機関長、痛憤す。同感!(済南)〔大陸録音〕
『大阪朝日中支版』 1939年7月26日

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 【5】 領事館警察による風紀取締週間

 日本人のゾンザイな振る舞いを見かねて、領事館警察が取締りに乗り出す。済南の夏はひどく暑かった。あまりの暑さのために、服装などに乱れが生じがちであった。1940年6月、済南の領事館警察は風紀取締週間を設け、日本人のゾンザイな振る舞いを取り締った。取締要綱は9項目に及び、細かなことまで注意している。第4から第7までは明らかに女性向けの警告である。第8、第9も女性が対象である可能性が高い。

 暑くても、身だしなみ 御婦人よ、肌をみせるな 済南の風紀取締週間
(中略)領警当局が風紀取締週間を実施して、左の要綱で居留民、特に婦人の服装について厳重な取締りを行ひ、自戒自粛を要望してゐる。
 一、のりのおちた皺くちゃの浴衣がけで外出しないこと  二、からげ帯、または尻端折(しりっぱしょり)をして外出しないこと  三、外出の際、腕捲り肌脱ぎをしないこと  四、婦人は特に肌を露出せざること  五、洗髪のままで外出しないこと  六、細帯または伊達巻のままで外出しないこと  七、アッパッパのままで外出しないこと  八、外出の際は可成(なるべく)、足袋をはくこと  九、その他、不仕鱈(ふしだら)な服装や、風紀を紊(みだ)すやうな行為をなさざること。
『大阪朝日北支版』 1940年6月11日

 次は、同じ済南であるが、1年後の1941年6月の状況である。

 その御苦労も知らぬげに、浴衣の袖をまくりあげ、細帯一本で尻をからげた心なき旅行者の散歩姿、或はワイシャツにネクタイもはづして半ズボンに下駄ばきといふ見苦しい風体の邦人、銭湯帰りの洗ひ髪に伊達巻姿の接客婦人らの横行など、余りにも暑さに紊れた済南の夏の街頭風景に「汚すな体面、乱すな風紀」、「偲べ前線、正せよ身形」と呼びかけて、済南総領事館では風紀取締週間を、九日から電撃的に開始。
 清水署長自ら街頭に出動して、全市十二ケ所で一斉に街頭取締を行ってゐるが、今回は特に日本青年団員も毎日二十名づつ街頭突撃隊として協力。不心得者を散々に槍玉にあげた。(中略)
 雨中に自ら繁華街に出馬、風紀取締陣頭指揮をした清水領警署長は語る。 (中略)
 済南の邦人の緊張が徹底してゐる証左で、取締当局としてはなるべく違反者のないことを望んでゐる。徒らにやかましいことをいふのではなく、邦人の体面を汚さぬことを望む当局の意をくんで、居留民諸君も自戒自粛して大陸日本人の矜持をきづつけないやうに御協力願ひたい。
『大阪朝日中支版』1941年6月14日

新聞(部分)

『大阪朝日北支版』 1940年6月14日
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 領事館警察の取締りのようすが写真入りで報道されている。新聞写真で鮮明さに欠けるが、参考までに写真とその説明文を紹介しておく。
「㊤ 清水署長以下、署員総動員で街頭風紀取締陣   ㊥ この帯、この足に街頭監視隊の説諭  ㊦  寝巻姿のこの足に厳しい訓戒」

 上下とも白い制服を着た警察官が街頭で取り締まっている。腕章をつけた別の制服姿のものは、日本青年団員の街頭突撃隊であろうが、それがどのような組織だったのか、わからない。警官が不心得者を説諭している写真が二枚ある。一枚は半ズボンの男である。足の露出がよくないようである。もう一枚はネマキ姿の男性である。ネマキ姿で街に出てくれば、説諭されるのは当然である。

 済南における風紀取締週間は、1940年、41年と続けて実施された。41年では領事館警察の署長まで街頭に出てきて、陣頭指揮している。警察による風紀取締週間の設置にもかかわらず、日本人の服装や身だしなみの乱れが容易におさまらなかったことを示している。

 風紀取締週間は1942年以降も続いたことであろう。風紀取締週間は決して済南だけで実施されたのではなく、他の日本人町においても、風紀取締週間が設けられ、在留日本人の服装や身だしなみの乱れが、警察から厳しく取り締まられたことであろう。

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 【6】 在留日本人も、しょせん、「東洋鬼」の仲間

 在留日本人の歓迎されざる行為は、泥酔、車夫に対する殴打、身だしなみの乱れにとどまらなかった。彼らは、軍事占領者の一部として、もっとあくどい行為を平気で行った。次に示す史料がその状況をあからさまに伝えている。筆者は、「お茶の水の東京高等歯科ドイツ語校教授から応召した文人中尉」の「久保漆部隊の枝広中尉」であった。

 慢の魅力と中国人 大陸文化建設の敵は誰か? 在留日本人の心構へ
(中略)僕の朋友中国人Wは幾たびか、僕にこんなことをいってゐる。『北支に来てゐる一部の日本人は中国人を騙して金儲けをしようとしてゐる。また悪い商売をしてゐる。白面(ヘロインのこと)の売買はご法度だ。中国人が禁止されてゐるものを、日本人だからといって、売っていいといふ法はない。
 また中国人から物を買う場合、半ば強制的に値を決め、あるひはあとで金を払はないやうなことすら、ないではない。中国人は没法子(メイファーズ。しかたがないという意味。)で、だまってゐるが、こんな場合、中国人が心の中で国民党時代の方がよかったと思はぬとも限るまい。』(中略) 
 汪精衛氏の政治的頭脳の一人である周仏海氏は、日本人が中国人を軽蔑してゐる限り、中国人が日本人を憎悪することも止まぬだらうといってゐる。これらのよくない日本人と、何らの根拠なくして一般的に中国人を軽蔑してゐるところの日本人は、大陸文化建設の敵だ。(中略)
 日本人の面汚しになるから、浴衣に下駄を突っかけて、北京の街を歩いちゃいけない。温袍(どてら)で洋車(人力車のこと)を乗り廻すべからず。‥‥‥もちろん、よくないのはよくないとしてしても、それは二の次の問題だ。要は大陸在留の日本人の心構への如何で、一人一人が大陸文化建設の一頁を埋めることが必要である。(中略)
 そして、日本が先づ範を垂れなければならない。大陸在住の欧米人は中国語がうまい。それに反し、大陸に永くゐる者でも、日本人はてんで初めから中国語を覚えようとしない。一切を日本語で押し通さうといふのも、余り心臓が強過ぎやしないか。中国人に日本語を教へることも必要だが、第一、数億の中国人に日本語を覚えさせるよりも、何十万かの在支日本人が中国語を覚える方が早道であることは、自ら明かであらう。
『大阪朝日北支版』 1940年3月8日

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慢の魅力と中国人
『大阪朝日北支版』1940年3月8日
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 枝広中尉は、友人の中国人の話だということにして、在留日本人の悪い行為を紹介する。在留日本人の多くは、領事裁判権を悪用し、以前からモルヒネ・ヘロインを密売していた。戦争になってからも、その悪習(「白面の売買」)は続いているという。また、商売に当たり、日本人商人は往々にして支払いをごまかすと述べている。これも、ありそうな話である。日本はかねてから大陸文化建設を唱えているが、中国人をだまして金儲けをしている在留日本人こそ、大陸文化建設の敵だときびしく告発している。

 ドイツ語の教授だった経歴から、枝広中尉は、在留日本人が中国語を学ぼうとしないことを嘆いている。中国語を学ばないで、どうして中国人と親しくなれようかという。枝広中尉の批判は正しい。

 要するに在留日本人は、中国人に対して戦勝国の国民という思い上がった意識で臨み、ゾンザイな振る舞いを繰り返した。それは、日本の治安当局、すなわち、憲兵隊や領事館警察でさえ心配するほど、徹底したものであった。

 軍事占領下の中国人は、日本兵を「東洋鬼」と恐れおののいた。たしかに彼らからすれば、日本兵は「悪逆非道の限りを尽くす、東方からやってきた人でなし」であった。

 日本人町を作り、中国に多くやってきた民間人の日本人もまた、中国人の目から見れば、決して善良な外国市民ではなかった。彼らの悪い行為を中国人は身近に見た。その結果、民間人の日本人もまた、「東洋鬼」の一族であることを思い知らされる。おそろしい「東洋鬼」の仲間であると認めた以上、中国人は民間人の日本人に対しても、決して心を許さず、心を閉ざし、用心深くつきあった。
(2012年8月17日)

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