◆パラオで考えたこと(その4)
  パラオと丸木俊 そして絵本画家いわさきちひろ◆              

                                              ボランティア 丸山泰子


 

 今月は夫に代わっての投稿です。パラオ・コロール島のベラウ・ナショナル・ミュージアムで、この夏「ピースあいち」で開催予定の「原爆の図」の丸木俊(当時は、赤松俊子でした)の絵に偶然出合ったことをきっかけに、その後分かったこと、考えたことなどをまとめてみました。

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写真① バイの前で 。残念!バイの下部のみ。上部は次の写真参照。

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写真② バイ上部外壁の装飾

 ベラウ・ナショナル・ミュージアムは、ミクロネシア最古の博物館です。私たちはゆっくり見たいと思い、コロール島内観光のツアーではなく、暑い中二人でホテルから1時間ほど歩いて行きました。館外のバイ(注1・写真①②)や日本統治時代の遺物を見た後、併設されているカフェで休憩をしてから館内に入りました。入館者は、私たち二人だけでした。展示テーマは、50周年を記念し「パラオの歩んできた年月」。ヨーロッパの人々との接触がなかった時代から、スペイン、ドイツ(写真③)、日本による統治時代、戦後のアメリカ統治時代、そして共和国となった現在までを時間の流れに沿って見学できるようになっています。他に、パラオの自然史などの展示もあります。
 

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写真③ ドイツ統治時代のパラオの人々
ベラウナショナルミュージアム(Belau National Museum)しおり より

 赤松俊子の絵は、日本の統治時代の展示のところで見つけました。小さなスケッチ画が6枚と写真がありました。「何で丸木俊の絵がパラオにあるの?」と素朴な疑問をもった私は、キャプションをしっかり読みました。どうやら俊が若い頃パラオに来たことがあるらしいということが分かりました。また、写真には、「土方・・・」という人と一緒に写っていて、俊は、パラオで「土方」の世話になったということも分かりました。実は、旅行前に、「土方」という名前は、私の頭の中にぼんやりとインプットされていました。それは、パラオの代表的な土産であるストーリーボード(注2)の発案者で、パラオの人たちに彫刻を教えた人としてでした。私は、パラオのお土産にストーリーボード(写真④)を買うことに決めていたのです。帰ってから調べてみたら、俊が世話になった「土方」とストーリーボードの「土方」は、同一人物だということが分かりました。

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写真④ 刑務所ギフトショップで買ったストーリーボード
受刑者が、じっくり時間をかけて制作。一般のギフトショップより安い。

 彼の名前は土方久功(ひじかたひさかつ 1900~1977 ミクロネシアに10年近く滞在)。彼は、築地小劇場の主催者土方与志(よし)の従弟で、東京美術学校卒業後、1929年から約3年間コロール国立学校の美術教師として赴任していました。その後ヤップ島やサタワル島などで木彫り制作を続けながら民俗学の研究・実践をしています。俊は、土方と出会ったことで南洋体験が実りあるものになったようです。

 私はこれまで、丸木夫妻や彼らの作品については、あまり関心がありませんでした。私が俊のことを知ったのはいつ頃か、はっきりしませんが、それは、絵本画家いわさきちひろ(1918~1974)を通してでした。私は、教師になったばかりの頃からいわさきちひろの絵に惹かれ、私の書棚には、彼女の絵本はもちろん、画集や著作、また、彼女の夫・松本善明(元衆議院議員)や息子・松本猛(元両ちひろ美術館館長)の著作など、どんどん増えていきました。退職後思い切ってたくさんの本を処分しましたが、ちひろ関係の本だけは、今も大切に持っています。彼女の死後3年目に建てられた東京のちひろ美術館には、ほどなくして訪れました。15年前、安曇野ちひろ美術館が開館してからは、毎年のように夫と出かけています。私はこれまで落ち込んだ時、ちひろの絵や生き方に元気をもらってきました。

 ちひろが、戦後まもなく絵の勉強をしたくて長野県から東京に出て来た時、最初にちひろが世話になり絵の指導を受けたのが、赤松俊子でした。その後、20年近く丸木俊とは、友人、先輩として家族ぐるみの親密な付き合いがあったそうですが、1964年、考え方の違いで丸木夫妻とは訣別しました。ちひろにとっては、もっとも辛い選択だったようです。そのため、私の心のどこかで俊を遠ざけようとする気持ちがあったのでしょう。また、私の好きなちひろの絵とは、あまりにも対照的で好きになれませんでした。
 しかし、パラオで俊の絵を見たことと、今年、丸木俊生誕100年に丸木美術館で開催された展覧会にちひろの絵が特別展示された事などを知って、丸木夫妻、特に俊についてもっと知りたいと思うようになりました。

 俊が、笠置丸(かさぎまる)に乗ってパラオのコロール島に旅だったのは、1940(昭和15)年1月、俊が28歳の時でした。何でも失恋の痛手を癒すのが目的だったようです。エメラルド・グリーンの海、マッシュルームのような大小の島々、ヤシやマングローブの林、どこまでも続く白い砂浜、開放的な島の人々。私もパラオ旅行から帰った後しばらく、「日本がいやになったらパラオへ行こう!」と叫んでいましたので、70年前のパラオは、もっともっとパラダイスだったことが想像できます。土方の援助もあり、すっかり元気を取り戻した俊は、南洋の風景や風俗を描きました。中でも彼女が盛んに描いたのは、上半身裸のおおらかな褐色の女性達でした。色彩も豊かになっていったようです。「原爆の図」で傷ついた裸体の群れをたくさん描いた俊でしたが本当は、きれいな裸体をいっぱい描きたかったのだと思います。人間の裸体は美しいという芸術感がカンバスの上に定着したのが、このパラオの時代だったといわれています。  この夏、「ピースあいち」にくる「原爆の図」第5部「少年少女」には、建物疎開で動員され、被爆した少年少女たちが描かれています。しかし、その中に、そこだけスポットが当たっているかのように、きれいな裸の姉妹が描かれています。あえてきれいな裸の少女を描くことによって、未来のある少年少女達を傷付けたものへの怒りを表現したかったのではないかと思いました。私は、この美しく描かれた姉妹の姿を是非見てみたいものだと今からワクワクしています。

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写真⑤ カヤンゲル島ロングビーチ
( カヤンゲルツアーブルーマリーンHPより)

 

 当時パラオには、島民よりはるかに多くの日本人が住んでいました。俊は、「日本人がいない所へ行きたい。」と、今でもガイドブックに「パラオでナンバーワンの美観を誇る」と紹介されているコロールから北へ高速ボートで2時間ほどの環礁カヤンゲル(写真⑤)を土方等と訪れます。(私たちは残念ながら、今回の旅行でカヤンゲルには行きませんでした。)俊は、南洋庁が売りに出していたカヤンゲルの無人島が欲しくなります。資金を作るため半年で日本へ帰り、「赤松俊子南洋の個展」を開きます。島を買うという夢はかないませんでしたが、この個展をきっかけに位里と出会う事になります。

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写真⑥ 俊の帰国直後の1940年末、紀元2600年記念事業として、コロール島に建てられた南洋神社跡。
同年南洋群島大政翼賛会も設立された。

 この時期パラオでは、アメリカとの戦争の準備が急がれていましたが(写真⑥)、俊はそれほど深くは考えなかったようです。しかし、後に夫妻が手がけた「原爆の図」や「沖縄戦の図」(パラオでは現地召集の戦死者の過半が沖縄出身者だった)は、ここ、南洋の島々と深く結びついていたのです。小沢節子は、その著書『原爆の図』で、「この地に、『原爆の図』の作家丸木俊が太平洋戦争直前に足跡を残していることには、歴史の巡り合わせとはいえ、象徴的なものを感じずにはいられない」と述べています。  俊とは、比べものになりませんが、私たち夫婦にとってもパラオ旅行は、実り多いものとなりました。「ピースあいち」での「原爆の図展」の前にパラオで若き日の俊の素朴なスケッチ画に出合えたことは、本当に幸運でした。  


 この夏、もう一つ楽しみなことがあります。それは、ちひろ美術館・東京開館35周年、安曇野ちひろ美術館開館15周年を記念してドキュメンタリー映画「いわさきちひろ~27歳の旅立ち 」が、名演小劇場で上映されることです。私の中でちひろと俊が手を結ぶ夏になりそうです。


(注1)古来より伝わるパラオの集会所。外壁や内部の梁などに絵文字や木彫りで見事な装飾が施されている。
(注2)マホガニーなど硬質の木材にパラオの伝説や神話の1シーンを彫り込んだもの。土方久功がパラオの芸術様式に感銘を受け、バイに施されていた伝統的な装飾を小さなボードに彫り、後世に残すことを提案。これが、ストーリーボードの原型になった。

<参考文献>
       小沢節子『「原爆の図」―描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』 岩波書店 2002年
       松本善明『ちひろ―絵に秘められたもの』 新日本出版社 2007年
       地球の歩き方編集室『地球の歩き方リゾート―パラオ』ダイヤモンド社 2011年
       楠しげお『平和をねがう「原爆の図」―丸木位里・俊夫妻』 銀の鈴社 2012年