パラオで考えたこと(その2) 激戦の島ペリリュー島      ピース研究会 丸山 豊


 
パラオ地図

地図 上:パラオ諸島 下右:ペリリュー島 下左:アンガウル島
出典 安島太佳由『歩いて見た太平洋戦争の島々』(岩波ジュニア新書)

 パラオの中心島コロール島から南へ約40㎞、海の色が何回となく変わるロックアイランド、珊瑚礁をすり抜け、猛スピードの高速艇で一時間ぐらいで別世界のペリリュー島に着きます。広さはたった13平方㎞、島全体を包むジャングル、わずかな民家、そこに600人余りがゆったり穏やかに暮らす島です。しかし、ここがかつて太平洋戦線の有数の激戦地だったことは余り知られていません。(地図参照)

 この日も天気は南国にしては湿度も適度で、過ごしやすい晴天、戦跡を訪れた日本人は10名、ガイドは20代半ばの日本人青年でした。

 ペリリュー島一日観光の案内パンフは、次のようにこの島を紹介しています。

 連戦連勝で意気揚がる米軍は、1944年日本軍基地や船舶に攻撃を開始(3/30~31パラオ大空襲)。オレンジビーチ上陸(9/15)から3日で終わらせる予定(連合軍ニミッツ提督)だった戦闘は、日本軍守備隊の凄まじい抵抗にあい3ヶ月にも及んだが、結局同年11月24日「サクラ、サクラ」の暗号を打電して玉砕。この間死傷者は米軍が8,500人以上、日本軍が12.000人となった。各所に残る戦跡は、戦争の悲惨さを寡黙にして雄弁に物語っている。
(ロックアイランドツアー社パンフより)
 ※補足=戦死者はアメリカ約1,700人、日本約10,000人余、アンガウル島では1.050人 その他のパラオ諸島650人 、詳細は不明

パラオ地図

写真① 陸軍九五式軽戦車

 参加者は、慰霊目的など何らか戦争に関係する人がほとんどでしたが、中に大学卒業と同時に神主を継ぐ予定という若いカップルがいました。その男性は、「パラオに建てられた神社を実際に見に来た」とのこと。パラオ、コロール島には「南洋神社」の遺跡跡もあります。私は「現地の住民がどう支配されたのか、神社がどんな役割を果たしたのか」を少しだけ話題にしました。

 パンフの宣伝文だけに惹かれてこの島を訪れる人は少ないでしょう。しかし紹介した文面にある「サクラ」の電文で分かるように「大和魂の見事な散り方」が賛美され戦陣訓さながらの教訓的な島として紹介されています。戦後は「その勇敢なる戦闘」を顕彰し「英霊」として祭る神社(ペリリュー神社)も建立されました。戦闘の美化は、歴史の流れを見失うことにもつながります。グアム、サイパン陥落後のペリリュー島の戦闘は、時間稼ぎの洞窟持久作戦、捨て石作戦など硫黄島、沖縄の先例になったことを忘れてはならないのです。

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写真② 最後の砦、大山洞窟内の20糎(センチ)砲

 ペリリュー島は、南北7㎞、東西3㎞の小さな島全体が戦争遺跡でした。私たち10人を乗せた廃車同然のマイクロバスは、ジャングルの中の一本道を抜け、浜辺を回り、島の丘陵地など、一日かけて13カ所の戦跡を回りました。洞窟、戦車、戦闘機、防空壕、トーチカ、錆びた大砲の数々、慰霊碑・・・米軍がどんな犠牲を払っても、手に入れたかった滑走路跡などが次々と目の前に現れます。あえて保護、保存をしないためか、どの戦跡も67年間の時間とともにジャングルの片隅に朽ち果てていました。ゆったりとした時間が流れるこの島に戦争があったことが不思議に思えるほどのギャップを感じます。しかし私自身、戦跡の前に立つたび勉強不足だったことを悔やみました。帰国後、戦闘の性格、兵器、飛行機などいろいろ調べてみると「陸軍の九五式軽戦車」(写真①)、「20糎砲」(写真②)米軍の「水陸両用戦闘車両」(写真③)、「火炎放射器搭載戦車」であったことが分かりました。

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写真③ 米軍の水陸両用戦闘車両

 戦跡が多いため頻繁に乗り降りします。ジャングルの湿地帯を少し奥に入ったところに、錆びた大きな金属の塊がありました。日本人青年ガイドが指さす残骸には、まだ赤色のペイントがはっきり分かります。日の丸です。いわゆる「ゼロ戦」。正確には「零式艦上戦闘機」の朽ちた残骸でした。(写真④)触ってみるとぺらぺらです。この零戦、今も多数の遺骨が島の至る所に眠っていることを実感させました。

写真 パラオの海と島々

写真④ 零式艦上戦闘機(ゼロ戦)

 実はパラオのジャングルには毒虫はいないと安心していたのですが、妻がここで蚊に刺されたようです。「サクラ」の電文、司令官の自決で終了したはずのこの戦闘も、その後の終戦も何も知らされないまま1947年4月23日まで洞窟持久戦を続けた34名の兵士たちと比べれば、蚊ぐらいは・・・・とも思いましたが。

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写真⑤ 米軍が上陸したオレンジビーチ

 米軍が最初に上陸したオレンジビーチ。(写真⑤)1945年9月15日、迎え撃つ日本軍との戦闘でこの浜が真っ赤な血で染まったといわれています。最南端にはペリリュー平和祈念公園があり、外洋からさわやかな風を受けながら、お弁当を食べました。波と風の音しか聞こえません。平和な一時でした。沖にアンガウル島が見える場所(後で知りました)であったようです。アンガウル島もやはり激戦地です。フィリピンに向けての飛行場をそこに建設するため米軍も必死でした。

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写真⑥ 海軍の司令部跡

 建造物は徹底的に破壊されました。特に旧海軍の司令部跡は壮絶でした。(写真⑥)頑丈な鉄筋コンクリートの天井に大穴が開き、分厚い壁も撃ち破られ、砲弾痕だらけの外壁などすさまじさが分かります。階段、トイレ、風呂場、炊事場もはっきりその跡を残していました。それだけに、満州から何も知らされず、南国へ連れて来られた第14師団の1万1千人の20代の兵士の顔が浮かびました。。

 最後の砦となった洞窟司令部を見て、その裏山(大山といわれた)の展望台に登りました.島全体が見渡せ、海に浮かぶパラオの多くの島々、眼前には豊かなジャングル(当時はジャングルも焼き尽くされたのでしょう)が広がります。静かな海と見事なリーフ、ここからの眺めは67年前の激戦をしばし忘れるほどでした。(写真⑦)

写真 海に沈む夕日

写真⑦ 島の最高地 大山展望台

 帰路、マイクロバスは海中に支柱を残すだけの旧日本軍の波止場跡に向かいました。この小さな港の近くのトーチカには、火炎放射器で焼け焦げた跡が残っています。高速艇はコロール島めざしスピードを上げ始めました。引き潮のため海面に広がり南国の夕日に映えるサンゴリーフ、小さくなるペリリュー島を見ながら、長かった一日を考えました。「いったい島の住民はどうだったのか。」「アジア・太平洋戦争の全体像の中でパラオの統治支配を考えなくては」と思いながらも、めまぐるしく変化する海の色、雲、飽きない島々に目が奪われていました。

 次回は日本人になろうとし、日本軍を支え、戦火に巻き込まれたパラオの人々について、また非核憲法を持つパラオの今に迫りたいと考えています。(つづく)。