◆ シリーズ 戦争を考えるための遺跡 ⑩ ◆
     『八事に投下された模擬原爆パンプキン』          金子 力


 

 3月初めに児童文学作家の令丈ヒロ子さんが、戦争と平和の資料館ピースあいちを訪問されました。昨年夏に『パンプキン!模擬原爆の夏』を講談社から出版されたことがきっかけとなり、今回の訪問が実現しました。これまでにピースあいちでも本の紹介をしてきました。今回の目的は全国で一番多く模擬原爆が投下された愛知県(49発中8発)に資料探しと現地確認のための来館でした。

模擬原爆パンプキン模型

2011年大津市歴史博物館にて

 ところで、『模擬原爆パンプキン』とはどんなものでしょうか。「聞いたことがあってもイメージが湧いてこない」という人は写真をご覧ください。

 この写真は滋賀県大津市歴史博物館が、同市内の東洋レーヨン大津工場に投下された模擬原爆パンプキンを実物大に復元したレプリカです。ずんぐりとふくらんだ形の爆弾です。大きな信管が3つついています。
 この形を見て何かを思い出しませんか。そうです。長崎に投下された原子爆弾ファットマンの形です。

 20世紀最大の出来事といわれた広島と長崎への原子爆弾の投下、その原爆投下を成功させるためにつくられたのが模擬原爆パンプキンでした。10,000ポンド(約4.5トン)の重量を持つ原子爆弾(広島に投下されたリトルボーイは細長い形で約4トン)を1万メートルの上空から目標地点に正確に投下するためには投下訓練をする必要があります。

 15機のB-29を持つ原爆投下部隊509混成群団は1945年7月20日から8月14日にかけて49発の模擬原爆パンプキンを日本本土に投下していました。もちろんその中に広島に投下したB-29「エノラゲイ」と、長崎に投下したB-29「ボックスカー」もいました。

 こうした事実が公表されたのは1991年のことです。春日井の戦争を記録する会が国立国会図書館で509混成群団の出撃を記録した一覧表と投下地を示した地図を発見したことによって、原爆投下作戦の全体像が初めて明らかになりました。

地図

  509混成群団の原爆と模擬原爆の投下地を示した地図  国会図書館蔵

 21年前には、研究者にもその存在をなかなか認めてもらえなかった模擬原爆パンプキンですが、現在では研究者による米国立公文書館の米軍資料の収集と分析も進んできました。とりわけ着弾地を特定できる米軍撮影の空中写真の発見は、日本側の証言を裏付けることになりました。
 全国各地で模擬原爆パンプキンの着弾地調査が始まって20年になります。それには、教員、郷土史家、市民団体、マスコミ、社会教育関係者などさまざまな人が参加しました。

 「これまで都市や工場への空襲の一部と伝えられてきた49か所の空襲が、実は原爆投下作戦の一部だった」という衝撃的な発見は、戦後50年以上経ってもまだ明らかにされていない戦争の事実があることを教えてくれました。
 これまでに福島、新潟、茨城、東京、静岡、愛知、岐阜、三重、富山、福井、滋賀、京都、大阪、兵庫、和歌山、愛媛、山口など17都府県で調査が行われています。



投下日

投下地

投下数

7月20日

茨城大津 東京 平(2発) 福島 長岡 富山(3発)

計9発

7月24日

新居浜(2発) 西条 神戸(4発) 四日市 滋賀大津 大垣

計10発

7月26日

柏崎 鹿瀬 日立 平 島田 名古屋 浜松 富山 大阪 焼津

計10発

7月29日

宇部(3発) 郡山(2発) 保谷 和歌山 舞鶴

計8発

8月6日

広島(リトルボーイ)

原爆広島

8月8日

宇和島 敦賀 徳島 四日市(2発)

計5発

8月9日

長崎(ファットマン)

原爆長崎

8月14日

春日井(4発) 豊田(3発)

計7発


 愛知県には1945年7月26日、広島に原爆を投下予定のB-29「エノラゲイ」が、昭和区八事日赤病院の交差点近くに模擬原爆パンプキンを1発投下しました。
 この日の「エノラゲイ」の当初の目標は富山市東岩瀬の軍需工場でしたが、天候により視界が悪く目標に投下することができなかったため、日本本土から離脱する直前に名古屋市の上空で投下していました。



八事周辺の地図

  米軍作成12500分の1日本都市地図 名古屋北東部 (国会図書館蔵)  に着弾地記入
  7月26日エノラゲイによる模擬原爆パンプキンの着弾地
  軍事目標のない八事日赤病院北の高峯町に着弾

 八事日赤の着弾地近くでは母親と娘さんが亡くなり、高射砲陣地では兵隊3名が亡くなり、合計5名が犠牲となりました。またこの投下で負傷した人もいました。
 ピースあいちで、この時の体験を語っていただいた山田芙美代さんは、爆弾の破片が目に入り、視力を奪われるという大けがをしました。
 戦争で死傷した軍人・軍属には国による補償があります。一方、山田さんには民間人であるということで、国から何の補償もありませんでした。戦後67年たっても戦争の傷あとは消えていないのです。



航空写真

  戦後も模擬原爆のクレーターが残っており、
  1947年11月7日米軍撮影の空中写真にもそれらしきものが写っている。

 戦争を考えるための遺跡は、長い年月の間に風化し消えていきます。そこにあった事実を石碑に記録して保存できることもあります。それが難しい時には、最近公開され始めた米軍の偵察写真や、当時の地図や資料をもとに復元していくことも大切になります。