◆知多半島の戦跡を巡って― 感想記 ◆                  会員 斎藤悠子


 

  ピリッとした冷気に包まれた10月2日の朝、私たち27人は、「ピースあいち知多半島戦跡めぐり」に出発した。戦跡班の皆さんの企画で実現した戦争を考えるための遺跡めぐりバスツァーである。参加者の中には、ピースあいちのボランティアの方の友人も居られた。
  私たちは河和海軍航空隊水上機基地跡、大井「回天」特攻基地跡をはじめ8カ所を訪ねた。バスの車内では元高校教師の野田隆稔さんが見学コースの道案内、現場での解説は戦争遺跡に詳しい金子力先生が務められた。
  お天気にも恵まれ、潮風にあたり大気も清々しい。今も残る戦争遺跡を巡るなかで、改めて平和への願いを強くした。

河和海軍航空隊水上機基地跡

河和海軍航空隊水上機基地跡

① 河和海軍航空隊水上機基地跡
 東は三河湾、西は伊勢湾に面した知多半島。その南部の美浜町・河和。海岸の基地跡に立つと、先ず3カ所のコンクリート製のスリップが目に入る。スリップとは、水上機を海面に下ろしたり引き揚げたりする〈すべり台〉のことだ。『愛知の戦争遺跡ガイド』によれば、河和に海軍航空隊ができたのは1943年(昭和18年)のこと。翌年から水上機による特攻訓練が行われ、やがて沖縄方面へ出撃していったという。
 実は私は子供の頃、この浜辺で飛行機を見たことがある。戦時中、国民学校低学年だった私は、親戚の住む河和の海岸で遊んでいて、砂浜に置かれた水上機に出会い、びっくりした。迷彩色に塗られた機体は、その姿を隠すように木の枝で覆われていた。
 飛行機とは重々しく頑丈なものと想像していた私には機体が思いのほか小さく、また操縦席の防備も心細く思われた。こんな飛行機に乗って戦争に行く兵隊さんは大丈夫だろうか、と子供心に不安がよぎったが、今思えば、あれは訓練用の軽量の水上機だったのかもしれない。

 大井「回天」特攻基地跡

大井「回天」特攻基地跡

 

② 大井「回天」特攻基地跡
 次の目的地である大井港に着くと「弘法大師上陸の地」と書かれた看板があった。知多半島めぐりは、弘法大師ゆかりの風物も楽しめるコースになっている。大井の港にもコンクリートのすべり台の跡があったが、人間魚雷「回天」の特攻基地があった面影は薄い。ガイド役の金子先生の説明を聴かなければ、それとわかる人はいないのではないか。もし私がこの地の行政の担当者ならば、この海辺の地に戦時中「回天」の特攻基地があったことを示す立札を立てたいところだ。貴重な戦跡が人々の記憶から消えていくことは何より残念だ。私たちはあらゆる機会に語り継いでいきたい。とくに次代を担う子供たちに。

片名「震洋」特攻基地跡

片名「震洋」特攻基地跡

 

③ 片名「震洋」特攻基地跡
  南知多町片名にある「震洋」の特攻基地は、わずかに地下壕として姿が保たれていた。道路に面した山の傾斜地にコンクリート製の横穴がひっそりと口を開けている。巾2.9メートル、高さ2.4メートル、奥行は10メートル程。この壕は海軍の水上特攻兵器「震洋」の格納壕のひとつであった。震洋とは、全長5.1メートル、重量1.4トン。舳先に爆薬250㎏を積んで敵艦に体当たりする一人乗りのモーターボートである。  前述の『遺跡ガイド』によれば、「ベニヤ板製で、トラックのエンジンで走る大戦末期の産物」とある。当時訓練に明け暮れていたであろう若き兵士たちは何を胸にして兵器とは名ばかりの震洋に乗り込もうとしていたのか。胸がしめつけられる思いがした。このあたりには他にもいくつかの地下壕が掘られていたが、今は造成されてわずかにこの壕を残すのみという。

中之院軍人像

中之院軍人像

④ 中之院軍人像
 午前中最後に訪れた軍人像は、知多半島の43番札所である岩屋寺の東、岩窟寺中之院の境内にあった。68基の陸軍兵士像が直立不動の姿勢で正面を向いている。等身大より少し小さい1メートル程の全身像から、胸像やかなり大柄な兵士の像まで、みな軍服姿。胸に勲章をつけている。同じ台の上に立つよく似た顔立ちの兵士二人は、おそらく兄弟とも戦死したのであろう。
 日中戦争時、名古屋の歩兵第六聯隊は多くの戦死者を出したが、その時の兵士ら一人ひとりの姿を、石工が写真などをもとに石像に残したのが、この軍人墓地なのだ。当初は名古屋覚王山の月ヶ丘軍人墓地にあったが、1994年(平成6年)に中之院へ移されたという。
 もの言わぬ軍人たちの像は、みな涼しげな目を見開いて何かを訴えているように私には思われた。今もゆかりの人が線香をあげに訪れ、兵士たちの前に花や水が供えられていた。

雁宿公園 平和記念碑

雁宿公園 平和記念碑

⑤ 雁宿公園
 「半田魚太郎」で昼食をとった後、私たちは半田市街や衣浦港を見下ろす高台の雁宿公園に向かった。園内には新美南吉や小栗風葉の文学碑があるが、私たちが目指したのは、戦災犠牲者を追悼する「半田・平和祈念碑」と東南海地震の学徒の犠牲者を追悼する「学徒殉難碑」。432人の戦災犠牲者の氏名を刻んだ平和祈念碑には「地元の市民をはじめ全国各地から動員された学徒、女子挺身隊、徴用された人々の尊い生命が失われたことを悼み、またそのなかに日本の植民地とされていた朝鮮から連行された人々が含まれているのはまことに痛ましいことであり、ここにアジア諸国をはじめとするすべての戦災犠牲者を追悼し、再び戦争を起こさせない決意をこめて平和を祈念する」との旨が実行委員会の名で刻まれていた。
 金子先生がお話の中で触れておられたように、戦時中中国から強制連行され、大府飛行場の建設工事で亡くなったとされる労働者の追悼式典が、この日東海市のお寺で行われたとの記事が翌10月3日の中日新聞に載っていた。戦争が遺したものを考えるとき、私たちは犠牲になった朝鮮や中国の人たちを忘れてはいけないと思う。

銃弾を受けた壁 赤レンガ

銃弾を受けた壁

⑥ 中島飛行機滑走路跡 
 戦時中、半田市には海軍機を生産する中島飛行機(株)の大軍需工場があり、多い時は約3万人が生産に従事し、多くの従業員寮があった。それらを目標にした本格的な空襲が1945年(昭和20年)7月15日から始まった。私たちが訪れた赤レンガの建物は、1898年(明治31年)、カブトビール工場として完成したが、戦時中は中島飛行機の衣糧倉庫として使われていた。北側の壁には、7月15日、米軍の硫黄島から発進してきた小型機P51の機銃掃射による多数の弾痕が残っている。 
 この赤レンガの建物は今は半田市が所有し、保存している。この日はたまたまイベントのある公開日であったので、建物の内部を見学することができた。戦争の語り部としてこの建物が末長く保存されることを願いたい。

⑦ 中島飛行機滑走路跡 
 戦後アメリカ軍が撮影した半田市の空中写真を見ると、防波堤の中に一直線にのびる滑走路の一部が見てとれる。このあたりは、中島飛行機半田製作所で生産した海軍機を基地に送り出すための飛行場の跡地で、離陸専用として使用されていた。北側には飛行機を回転させるための円形の輪郭部が残り、上から見ると台所で使うお玉杓子の形に似ている。私たちは、金子先生の丁寧な説明に耳を傾けながら、今は畑や住宅地となっている滑走路跡をバスでたどった。

防空壕

防空壕内部


  ⑧ 望洲楼防空壕跡
 戦跡をめぐるバスツァーの最後に訪れたのは、安政年間から続く半田の料亭「望洲楼」。衣ヶ浦を一望できる丘の斜面に建てられている。明治の頃には福沢諭吉が仲間とともに宴を催して、詩をつくり書を楽しんだなど、風流なエピソードには事欠かない老舗料亭だが、戦時中は中島飛行機の宿舎として使われた。おそらくは幹部クラスが逗留したのでは、と想像されるのは、望洲楼のご厚意で拝見した玄関脇の防空壕がコンクリートで固めたまことに強固な造りだったから。この立派な防空壕が二度と防空壕として使われることのないように、と強く思った。

 おわりに    
 帰途、半田市 岩滑 やなべ 矢勝 やかち 川堤で丁度見頃となっている約200万本のヒガンバナをバスの車窓から眺めることができた。新美南吉の代表作「ごんきつね」にちなんで、地元の人たちが20年にわたってコツコツと手入れを続けてこられたものである。夕空のもと堤防はまっ赤に染められていた。
 「ピースあいち」の活動も、この先10年、20年と受け継がれ、この200万本のヒガンバナのように大勢の人たちから支持されていきますように、と私は心のなかで呟いていた。  (完)

ひがんばな