シリーズ 戦争を考えるための遺跡①◆「戦災復興によりできた平和公園」      金子 力                             



  『ピースあいち』は名古屋市名東区よもぎ台にあります。このあたりは、第2次世界大戦の時『猪高村』とよばれ、名古屋市千種区に隣接する農村でした。『猪高村』は名古屋市街地でも工場地帯でもなかったために戦争に関係する施設はありませんでした。そのために、空襲の目標にもなりませんでした。戦後作られた『名古屋市焼失区域図』を見ると、戦災の痕跡を見ることができません。
 それではこの『ピースあいち』周辺で「戦争の足跡」を見る事はできないのでしょうか。ところがそうでもないのです。『ピースあいち』から約1キロ西へ行くと『平和公園』があります。千種区から名東区にまたがる総面積約150ヘクタールの全国有数の墓地公園です。この墓地公園の設置そのものが、戦争と関係しているのです。
 戦後、政府は『戦災復興院』を設置し、1946年10月に全国115都市を「戦災復興都市」に指定しました。とりわけ東京・横浜・名古屋・大阪・神戸の五大都市は人口が密集していたため、米軍による軍需工場への爆弾攻撃や市街地焼夷弾攻撃をくり返し受け都市の機能が完全に破壊されてしまいました。

 

 名古屋の「戦災復興土地区画整理事業」は庄内川と天白川に囲まれた4,406ヘクタールの市街地を都市計画の対象として実施され、名古屋を代表とする100m道路(久屋大通・若宮大通)をはじめ大規模な区画整理が行われました。また、名古屋市内の279寺院の墓地と墓石189,030基を名古屋市内の東部丘陵に移転して墓地公園としました。それが、現在の平和公園です。歴史上の人物の墓も数多くあり、尾張徳川家の菩提寺『建中寺』墓域には7代藩主宗春の墓石があります。この墓石の右上には黒く焼けた傷跡がありました。「空襲を語る痕跡」ということで、『愛知県史』文化財編にも戦争遺跡として紹介されています。ところが、2010年まであった「空襲を語る痕跡」も、2011年3月には墓石の修復により無くなってしまいました。
 せっかくの「戦争遺跡」がなくなってしまったことを残念に思ってその周辺を歩いていると、まだ「戦争遺跡」がありました。三菱とならんで名古屋の軍用機生産会社であった「愛知時計電機」の殉職者の慰霊碑が。(次号に続く)


写真左:空襲の痕跡の残る徳川宗春の墓石(建中寺墓域)2010年2月撮影 右:空襲の痕跡が見えなくなった徳川宗春の墓石(建中寺墓域)2011年3月撮影