元米兵捕虜Szwabo氏の「ピースあいち」訪問と私たちの課題(その3)     丸山 豊


  ピースあいち訪問の翌日9/15、一行は四日市石原産業に向かう。翌9/16、中日新聞の三重版に「元米兵捕虜 涙の献花」「戦後初、四日市の石原産業訪れ」の見出しと、工場内の慰霊碑に献花し敬礼しているスワボ氏の写真が掲載された。「亡くなった人がいるのは悲しいが、モニュメントを作ってくれたのはうれしい。米国の元捕虜の仲間にも伝えたい」とスワボ氏は感謝の意を示したという。(同行した中日新聞の福岡記者の記事より)これを読み、戦中戦後も問題を抱えた石原産業の敷地内に慰霊碑があったこと自体、驚きだった。スワボ氏は労働を強制された元捕虜として、その慰霊碑から「反省と謝罪」が読み取れたのだろうか。


  POWの伊吹由歌子氏の調査によると、フィリピン米兵捕虜の一行は1944年9月5日四日市に到着。石原産業工場に収容された元米兵捕虜は450人という。(その後150人は他所へ移動。当初の捕虜総数はイギリス、オランダをふくめ600名)その年の12月7日に東南海地震があり、工場も被害を受けた。1944年~45年の冬は厳寒で捕虜19名(アメリカ兵14名、オランダ兵3名、イギリス兵2名)が死亡した。
  石原産業は2009年にも元捕虜のレイモンド・C・ハイムバックさんの訪問を受けている。2001年にはレイモンド氏が中心となり石原産業を相手取った訴訟も持ち上がっている。しかし工場内の捕虜慰霊碑は元捕虜のわだかまりを和らげたらしい。碑文には日本語と英語で「人がその仲間たちのために命を捨てるほど気高い愛はない。自由と民主主義のため第二次世界大戦で戦い死んだ人々に捧げる」とステンレス板に記されている。しかし碑文、説明文は誰が起草したのか、碑の建立経過も石原産業自身は充分把握していない。
  慰霊碑をはじめ石原産業の戦前、戦後史、捕虜の労働内容と扱い、戦後の元捕虜への対応などまだ分からないことだらけである。もう少し「ピースあいち」として事前準備ができていたらなあと今更ながら思う。またとない元米兵捕虜訪問だったのに。

 

 さて、城山三郎の「捕虜の居た駅」に移ろう。作品に登場する「中学生のぼく」が毎日乗る駅は名鉄「有松駅」。城山の作品では有松駅の北側の丘陵地帯に「香港で捕らえられた200名ほどのイギリス兵が収容されていた」とある。捕虜と一緒に同じ電車に乗り「ぼく」は熱田区のD製鋼工場まで勤労動員で通うのだ。ぼくの働く工場は「白熱した鉄片が飛び散り、真っ赤に焼けたシリンダーやシャフトが投げ飛ばされる」危険な鍛造工場だった。捕虜はそこで鋼材を運搬していた。一体「ぼく」が動員され、有松収容所の捕虜が強制労働されていた工場はどこなのか?

 

 POW研究会の調査によると、名古屋捕虜収容所鳴海同分所は43年12月28日大阪捕虜収容所第11分所として愛知郡鳴海町有松裏(現名古屋市緑区)に開設され、1945年4月6日、名古屋捕虜収容所に移管、第2分所となった。終戦時には米兵189人、英兵64人など計273人(米189、英64,加11,その他9)の捕虜がいた。名古屋市熱田区三本松町の日本車輌名古屋工場へ電車で通い、働かされていた。しかし収容中の22人が死亡。責任者の陸軍将兵が戦犯として有罪判決を受けた、という。
 そうならば「イギリス兵ばかりではなくアメリカ兵、カナダ兵もいたこと」「熱田の工場とは日本車輌か」「では当時日本車輌は何を生産していたのか」「日本車輌以外でも捕虜を働かせた工場が存在するのか」といった作品「捕虜の居た駅」への疑問が湧いてくる。また「有松裏の収容所は現在どんな様子なのか」「当時、地域住民はどこまでこの事実を把握できていたのか」「捕虜の扱いはどうだったか」「当該工場の戦後の対応」など、とにかく城山作品を読み解く必要がありそうだ。


  今回のスワボ氏のピースあいち訪問は「ピースあいち」にいろいろ疑問と課題を投げかけてくれた。(3回連続、おわり)