兵器工場が平和公園に!―今年も元気な報告でいっぱいでした◆第34回戦災・空襲記録づくり東海交流会
岐阜空襲を記録する会 中島 裕子           

                                           
 
絵はがき

岐阜空襲を記録する会の中島裕子さん

 

 12月9日午後、恒例の東海交流会がピースあいちで開催されました。今年の特別報告は3本。以下が概要です。

1.豊川海軍工廠跡地保存をすすめる会 伊藤泰正さん
 今年6月、ついに跡地を利用した平和公園と平和交流館がオープンしました。マスコミも大きく報道し、ボランティアガイドも64名登録。まだ課題はありますが見学者も大きく増え、地元の戦争体験の認識は市民に広がっています。
2.鈴鹿市の戦争遺跡を保存・平和利用する会 竹内宏行さん
 奇しくも戦時中、東洋一の兵器工場として豊川と並び候補に上がっていたのが鈴鹿。そのため巨大格納庫3棟ほか多くの戦争遺跡が残ります。署名請願が実らず取り壊しになりましたが、跡地で春まつりを開催し、今は平和資料館実現を目指しています。
3.静岡平和資料センター 土居和江さん
 ボランティアの手で運営される静岡の資料センターでは近年、地元の大学と連携して学生ボランティアが増えています。学生たちの希望に添って仕事を頼み、彼らの課題を追求できるようにサポート。学生も戦争体験のつなぎ手として活躍しています。
 個人的感想。元高校教師の土居さんは(うちの篠崎先生と同じ)、大きくなった人間を指導して伸ばすのが上手いなあと感心しました。

全体の写真

 

 ほか各地からの報告では、東海三県下と、遠くは敦賀・小田原からも参加して13団体。参加は6県から20団体50名。高校生から91歳まで多彩で賑やかな一日でした。
 最高齢91歳の岡崎の香村さんが「あと10年やる」と宣言されると拍手が起こり、東邦高校の生徒会の生徒さんからは、名古屋市に空襲慰霊の日制定を求める運動を進める、はつらつとした訴えがありました。まとめでは小出さんの「武器を作っていた豊川工廠が平和公園になった。これは未来への希望になる」の言葉が印象的でした。

年に一度、各地の連携と絆を深める 懇親会
 交流会の後に懇親会もピースあいちで行うようになって3年目になります。発案は私と小田原の矢野さんでした。東海交流会は34回になりますが、私が参加し始めたのはピースあいちで開催するようになった近年です。それ以前は名古屋駅で有志が集まって飲み会をしていたと聞き、「一度飲み会やりたい」と。「幹事は私と矢野さんでやるから」と金子先生にお願いしたところ、なんと交流会と同じ会場で、ピースあいちのスタッフの皆さんがお世話くださって2,000円という手頃な会費で開催いただけることになりました。

 懇親会の良いところは、交流会で報告のなかった方やピースあいちスタッフさん達の率直な意見が聞けること。また岐阜もそうですが、各地の記録する活動は少人数で続けている会が大半です。「年に一度、各地の皆さんの顔を見るだけで励みになる」と言われる東海交流会ですが、懇親会ではさらにその絆と連携が強まることです。
 締めの挨拶は、息子の暁さんを連れて参加の矢野さんより。
「私が初めて東海交流会に参加した時、息子は赤ん坊でした。交流会の間、妻は息子と東山公園で過ごしました。今息子は私が誘う前に『自分も行きたい』と参加してくれます。こんなふうに次世代につなげることが広がってくれたらと思います」

 

 実り多い交流会と、和気あいあいの懇親会に、来年もぜひ皆さんご参加ください!