映画『梅の木の俳句』の舞台「広斎寺」を訪ねて
ボランティア 野田 隆稔            

                                           
 
絵はがき

広斎寺

 

はじめに
 1943年10月~1945年5月まで、14人のイタリア人が天白村(現天白区表山)に捕虜として収容されていた。八事が空襲に遭い、5月半ば、14人のイタリア人は石野村(現豊田市東広瀬)の広斎寺に移された。
 14人のイタリア人はムッソリーニ政権を否定した人たちで、反日として収容されたのだ。その14人の中にマライーニ一家がいた。夫フォスコ、妻トパーツィア、3人の娘――ダーチャ、日本で生まれたユキ、トニの5人家族である。
 トニの娘、フォスコの孫であるムージャ・マライーニ・メレヒが祖父母一家の足跡と祖母のトパーツィアや母トニの記憶、残された日記やメモ、写真などをもとに、ドキュメンタリー映画『梅の木の俳句』を制作した。映画を観たピースあいちの仲間と、彼らが滞在した広斎寺を訪ねた。

広斎寺での生活
 広斎寺は曹洞宗の古刹で、南北朝の時代に建立されたと言われている。山門・本堂もある立派な寺院である。酒井泰俊住職(映画にも出演)は1958年生まれで、実際の体験はないが、当時のことは祖父母や父母から伝えられているとのことだった。
 14人のイタリア人は5月の中旬に、村民に見られないようにと夜間にやって来た。5月17日には、近隣の広澤寺(浄土真宗)に21人のオランダ人が抑留されてきた。
 日本軍が監視していたことは天白時代と変わらないが、それほど厳しくなかった。子どもたちの栄養補給のミルク用にメスの山羊が一頭与えられていた。食料不足は天白時代に較べれば少しよくなったが、不足していたことには変わらなかった。広斎寺には寺内にため池があった。フォスコたちは池に住んでいるカエル(食用ガエルもいた)やザリガニを、さらには蛇や亀も獲って食べていた。
 酒井住職は『フォスコはカエルが光るものに反応するので、トパーツィアと交わした結婚指輪をルアー代わりに使いカエルを捕まえていた。しかし、糸がカエルに切られ、指輪を失くしてしまった。これがトパーツィアとの縁の切れ目になった』と、戦後、広斎寺にやってきたときに笑って話していたというエピソードを教えてくれた。

啓子さんと子どもたちの交流
 当時の広斎寺には啓子さんという9歳の孫娘がいた。啓子さんは現住職の叔母さんで、小原村(現豊田市)に嫁ぎ加納啓子さんとなり、小原和紙工芸家として活動している。今回会うことができず、お話が聞けなかったのが残念だった。
 啓子さんは広斎寺にやってきたイタリア人の3人の女の子と仲良くなった。特に同い年であったダーチャとはすぐに仲良しになり『ダーちゃん』『啓ちゃん』と呼び合い、歌を教え合ったそうだ。
 広澤寺に抑留されていたオランダ人は、8月29日にこの地を去った。イタリア人14人もおそらく9月1日であろうと思われるが、広斎寺を去って行った。
 学校に行っていた啓子さんがお寺に帰るとイタリア人たちは誰もいなかった。啓子さんは何も知らされていなく、別れの挨拶もできず悲しかったそうだ。啓子さんがダーチャ姉妹と生活したのは5月中旬から8月末までの4カ月弱という短い期間だったが、心はずっと繋がっていた。
 1991年にダーチャが名古屋テレビの番組取材のために、戦後、初めて日本を再訪した時、ダーチャは広斎寺を訪れ、啓子さんと45年ぶりに再会した。二人にはお寺での生活が瞬時に蘇ったとのことであった。これを契機に啓子さん、広斎寺の家族と3姉妹の関係は深まっていく。啓子さんはイタリアに何度も出かけ、マライーニ家の人々と会っている。三女のトニの娘ムージャ・マライーニさんは, 映画『梅の木の俳句』の取材のために広斎寺を訪れている。

広斎寺にあるフォスコの墓
 フォスコ・マライーニ一家は広斎寺を出た後、東京に行き、1946年5月横浜港を出て、フランスに着く。鉄道を利用してフォスコの実家のあるフィレンツェへ。秋にはトパーツィアの故郷シチリア島に戻る。半年にわたる帰国の旅であった。
 フォスコはトパ―ツィアと離婚し、日本人と結婚する。フォスコは日本の研究者であったため、日本に何度もやって来るが、トパーツィアはムージャに誘われても日本には来なかった。フォスコは広斎寺にもやって来ている。

絵はがき

フォスコのお墓

 

 2004年6月にフォスコは92歳の人生に終わりをつげる。「お寺の裏山で眠りたい」というフォスコの願いを叶えたいと、フォスコ夫人が広斎寺にイタリアの墓と同じデザインの墓を造営した。
 「CITLUVIT」というローマ字がある。この文字はフォスコの造語で、「月から地球にメッセージを伝えるために来た月界人」という意味だと住職が教えてくれた。お墓には毛髪と爪が収められているとのことだ。

絵はがき

フォスコの残したスケッチ画

 

 フォスコは絵も上手く、広斎寺を描いた鉛筆によるスケッチ画を残している。住職はその絵を見せてくださった。山門、鐘楼など貴重な資料である。住職はフォスコの著書、写真等を蒐集し、資料を集め、抑留の事実を人々に知らせ、残そうと活動をされている。