ピースあいち勉強会に参加して  
ボランティア     吉田  稔            

                                           
 

         テーマ:「父・新村猛と“治安維持法”」   講師:原 夏子さん
 秘密保護法、共謀罪が成立してゆく現状に危機感が高まっています。
 80年前の戦時下において「治安維持法」違反で逮捕された新村猛氏の長女・原夏子さんに当時の厳しく、生々しい状況を語っていただきました。

絵はがき

 1937(昭和12)年11月8日父・新村猛(33歳)は、京都市内の自宅で突然警官数名に寝込みを襲われ、警察へ連行されました。その時、自分は4歳でほとんで覚えてなくて、急に、父がいなくなったことは、病院に入院したためと聞いていました。
 実は、父のことについて詳細を知ったのは、父が最後まで住んでいた名東区の実家を整理した時です。強権的な安倍政権の様々な危険法案が強行採決される中、戦前の治安維持法下の状況と酷似していると言われる今日、父が治安維持法違反で逮捕されたことなど、当時の状況、父の活動のことを知りたいと思い、自分の遅い勉強が始まりました。
 1937年当時、父は祖父・新村出のヨーロッパ土産の雑誌『ヨーロッパ』誌上でロマン・ローランの文に感動し、反戦・反ファシズムの活動を知ります。反戦・平和の思いを強く持っていた父は、ヨーロッパの反ファシズムの旗の下で活動する西欧知識人・作家の発言、ニュースを現地の新聞記事を翻訳して『世界文化』として発刊しました。
 1937年の盧溝橋事件をきっかけに始まった日中戦争後、日本の思想取締りは、いよいよ厳しくなり「治安維持法」も拡大解釈されていきました。
 父は、この動きを十分に感じていて、弾圧されることも覚悟していたと思われます。

 しかし、父は共産党員ではなくただ、反戦・平和の思いからの行動でしたが、前述のように1937年11月の逮捕となりました。父自身は犯罪者としての意識はなく、精神的拷問に耐え抵抗し続けましたが、妻子があり、早く帰宅することが賢明と判断されるとともに、罪を認める手記を共産党員らしく書かされました。結局は、全て共産主義運動に起因することであったことは明白で、転向が明らかとして懲役3年、執行猶予5年の判決を受け、釈放されました。
 父は1年10ヶ月拘留されて1939(昭和14)年8月15日に帰宅しました。その後も公民権停止、保護観察下に置かれて、仕事にも就けずいつも家に居てうつうつとしていましたが、祖父の大きな事業『辞苑・編纂』(後の、『広辞苑』)の校正、推敲を手伝うことになりました。そんなことも分からずに、お父さんっ子だった自分はよく遊んでもらった覚えがあります。
 戦後の父は、この祖父の事業も手伝いながら名古屋大学のフランス文学科教授、平和運動などでほとんど我が家にいることは無く、一家団欒の家庭ではありませんでした。
 父の時代を思うと今の時代の危なさをひしひしと感じます。再び、治安維持法が幅を利かす時代に戻らないようにピースあいちの皆さんにも頑張ってほしいと思います。

 原夏子さんの率直な語り口で平和への思いがしっかりと伝わりました。