ひめゆり学徒ゆかりの戦跡をたずねて    
運営委員 坂井 栄子



加藤さんと堀田さん

ひめゆりの塔 

 

 9月9日に平和のための博物館・市民ネットワーク全国交流会のフィールドワークに参加しました。ひめゆり平和祈念資料館での「平和講話」の後、井原第三外科壕(ひめゆりの塔)前集合ということで、学芸員によるガイドが始まりました。
 第一声が「皆さん!ひめゆりの塔はどこにありますか?」私を含めて皆には戸惑いの声が。一番手前にある小さな石碑は1946(昭和21)年に建てられたもので、私たちがすぐに気がつく百合の花のレリーフがある大きな「ひめゆりの塔」は1967年に製作され、2009年に改修されたものですという説明がありました。

加藤さんと堀田さん

ひめゆりの塔の下に奥深く続く井原第三外科壕

 

 大きな「ひめゆりの塔」の下には井原第三外科壕が奥深く続いています。当時南風原町にあった「沖縄陸軍病院」の南部撤退後の分院の一つです。分院解散命令の翌日6月19日の朝に、米軍のガス弾を受けて中にいた学徒38人、教師4人が犠牲になったということです。

加藤さんと堀田さん

山城本部壕の中から入口を見あげて

 

 次に向かったのは、山城本部壕です。「朝の雨で壕の中は濡れていて滑りやすいですよ」というひめゆりのスタッフの注意を受けながらも壕を降りて下へ・・・向かいたかった!
 気を付けながら数段降りたら、若い男性が手を差し伸べてくれました。行為に甘えて2、3歩降りたら、後ろからひめゆりの二人の方の「止めた方がいいですよ」「すべると危ないですから」の声。見れば、すでに壕の下の方では説明が始まっていましたので、断念するより仕方がなかったです。
 それにしても、こんなゴツゴツした岩の急な壕を昇り降りして、夜には水汲み、食糧探し、伝令などの活動を行っていた学徒隊には感心するばかりです。

 解散命令後に、壕を脱出した多くの学徒が喜屋武、荒崎、摩文仁の海岸に追い詰められていきました。その一つである荒崎海岸への道を案内してもらいました。途中にアダンの林があり、米軍からの攻撃を避けるために住民や学徒たちが隠れるには格好の場所だと感じました。

 
加藤さんと堀田さん加藤さんと堀田さん

写真左:アダンの林  右:ごつごつした岩の道を進む

 

 平たんではなく、ゴツゴツして歩きにくい岩ばかりの道を歩いて、ようやく「ひめゆり学徒散華の跡」の碑まで到達。そこで、日本兵を追ってきた米兵の自動小銃の乱射により岩の穴に潜んでいて亡くなった学徒やけがをした学徒がいたこと、その混乱のなかで、手榴弾により教師、学徒を含めて10名が自決した岩穴の解説もありました。

加藤さんと堀田さん加藤さんと堀田さん

ひめゆり学徒散華の跡

 

 午前の「平和講話」のDVDの中で宮城喜久子さんは荒崎海岸の岩穴で、米兵の乱射で即死した学友の下敷きになり助かったが、20年以上その海岸を訪れることはなかった。しかし、その後訪れた荒崎海岸の岩穴がゴミ捨て場になっているのを見つけて沈黙することをやめ、体験を「大事なこと」として証言する活動を続けるようになったと述べています。
 実際にひめゆり学徒の戦跡をたずねることにより、体験談がヒシヒシと伝わったような気がしています。