◆所蔵品から◆資料ナンバー128・130・2540・2549
 戦中・戦後の高校野球(中等学校野球)の話 資料班



朝日新聞1942年8月24日

朝日新聞1942年8月24日
全国学徒・教員三体育大会
「甲子園球場の中等校野球開会式の盛観」

 2018年の夏の高校野球は、第100回大会でした。
 戦争中の高校野球について書かれた新聞記事を所蔵資料から探しました。
 現在と学校の制度が違うので、高校野球ではなく中等学校野球・中等野球などと呼ばれています。

 写真は1942年、昭和17年8月24日の朝日新聞の2面より、甲子園球場での野球大会の開会式の様子です。
 中央に二段、四角く盛り上がっていて真ん中に時計。甲子園のバックスクリーンは今も同じような形ですね。

朝日新聞1942年8月22日夕刊

朝日新聞1942年8月22日夕刊

 朝日新聞主催の、夏の高校野球は戦争がはげしくなって1941年の予選の途中で中止になってしまいます。
 1942年の夏に甲子園球場で行われたのは、文部省、大日本学徒体育振興会主催の「全国中等学校師範学校生徒並に全国国民学校、青年学校教職員体育大会」の中の、中等野球大会です。

 体育大会の全体の開会式は橿原会場で行われました。神武天皇をまつる橿原神宮があることから「聖地橿原」と表現されているのだと思われます。
「大東亜戦争下銃後の若き総力を挙げ、雄渾未曾有の構想のもと、……」
「公民の矜持を満身に東ゆ、西ゆ全国道府県、、台湾、樺太から馳せ集う選士六千六百、……」
 ニュース映像のアナウンサーの声が聞こえてきそうな調子のよい文体です。
 東ゆ西ゆの「ゆ」は「~から」というような意味です。「ゆ」なんて、万葉集の「田子の浦ゆ うち出でてみれば…」でしか見たことないかもしれない。(この歌では「田子の浦を通って」、という意味になります。)

朝日新聞1942年8月22日夕刊

朝日新聞1942年8月22日夕刊

 入場行進の様子を書いた部分です。先登(せんとう、いちばん最初)は、豊原中学だけの樺太部隊。わずか6人。樺太(サハリン)は1942年当時は日本の領土でした。
 「どの隊列の先頭にも郷土の府県、母校名を書抜いた純日本古風の旗指物が誇らしげにはためく、……」
 プラカードではなくて「旗指物」(はたさしもの)を先頭に行進していました。(新聞の写真からではどんなものだったのかはわかりません。)
 調べてみると、一般的な「旗指物」の形は、スーパーマーケットの駐車場のまわりにある縦長の旗というかのぼりというか、あれに近いようです。
 足元は、「全員ことごとく巻脚絆、役員も同じ姿で……」上の写真で、その様子がわかります。すねにゲートルを巻いていて、ひざから下が細く、白っぽくなっています。


朝日新聞1946年1月21日

朝日新聞1946年1月21日
全国中等学校優勝野球大会 今夏から復活開催

 戦争が終わったばかりの1946年1月、中等野球大会復活のお知らせの新聞記事もご覧いただきます。
 この記事は以前の「所蔵品から」でもご紹介したことがあります。
 「フェアプレイ」「スポーツマンシップ」が「明朗健全なる国家の建設」「民主主義日本の再生」の基になる、という事が書かれています。

朝日新聞1946年1月30日

朝日新聞1946年1月30日 中等野球界展望

 1946年1月30日の記事です。「中等野球界展望」「続々と野球部復活」「出足の早い京阪神、紀和地方」。
 「球場は耕され」「用具は散逸し」「復興には並々ならぬ苦難が予想される」……
 「耕され」ってどういうことだろう、と最初思ったのですが、食糧増産のためにグラウンドが畑になっていたのだな、と思い当たりました。
 「戦前盛夏の甲子園に全国のファンを熱狂させた中等学校野球……」という表現がされています。高校野球は昔から人気があったのですね。
 ピースあいちの地元、愛知県はどんな状況だったかというと、

朝日新聞1946年1月30日

朝日新聞1942年1月30日 中等野球界展望

「愛知県下の諸校が殆ど全部戦災にあったため『現在では再起の余地なし』と悲観する向がある如く、愛知球界には何らの動きもみられず、……」
と、厳しい状況だったようです。




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