2018年夏 戦争体験語りシリーズから           
   



毎年恒例の「戦争体験語りシリーズ」が8月1日(水)~15日(水)12回、開催されました。「ピースあいち語り手の会」「ピースあいち語り継ぎ手の会」の方たちが、日替わりで来館者のみなさんにお話をし、延べ568人の方が参加してくださいました。お話を、「ピースあいち」のボランティアが報告します。

●8月1日(水) 鈴木忠男さん(1926年生 92歳) 「生かされなかった情報-無線通信候補生」

絵はがき

 1945年3月通信学校を卒業し、4月に陸軍通信候補生の任務に就いた鈴木忠男さん(当時19歳)。まず、2011年8月にNHKスペシャルで放映された「原爆投下・活かされなかった秘密情報」を紹介されました。
 8月6日、日本軍情報部隊はテニアン島における米軍の動きを知りながら、空襲警報が出されず、原爆は無防備の状態にあった広島市民の頭上に投下されたというものです。8月9日についても同様でした。もし警報が出されていたらあのように多数の犠牲者が出ずに済んだのではないかと思うと残念です。
 当時、特殊情報部隊北多摩通信所通信傍受兵として勤務していた鈴木さんは、これらの通信の傍受に携わっていました。原爆投下後の8月10日に大本営から、14日までに証拠資料、機材の焼却、焼却後の灰も処分するように厳命がありました。通信所の存在を消し去り、情報傍受の事実もなかったこととして戦史から葬り去ってしまったのです。除隊時、憲兵より、通信隊は諜報機関であるためその場所、業務内容等一切口外することを禁じられたそうです。 (田中正興)

●8月2日(木) 松下哲子さん(1934年生 84歳)「旧満州・奉天市における戦中戦後の生活体験」

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 奉天で生まれ育ちました。昭和20年8月始め、「ソ連軍が攻めてくる!」と言われ、平壌に疎開、終戦をむかえました。8月末に奉天に戻りましたが、ソ連兵でいっぱいでした。酔っぱらって銃を空に向けて撃つことも。明日はどうなるか分からない、今日を生きることだけで精一杯でした。そんな中で、発疹チフスが発生し、周りの人がバタバタと亡くなっていきました。広場に穴を掘り、その中に遺体を放り込む。鬼火が飛んでいるという噂も聞きました。その時の死臭は、今も忘れられません。
 21年8月、姉と妹の遺骨を持ち、弟の手を引いて佐世保に帰ってきました。若い人たちに言いたいことは、侵略してそこに住みつこうとせず、世界の人たちと仲良くしていってほしいということです。 (小田鑑彦)

●8月3日(金) 加藤照さん(1931年生 87歳) 「岡崎空襲と勤労動員」

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  1945年、15歳で学徒勤労動員。配属先は三菱重工戸崎工場、任務は重爆撃機「飛龍」の胴体の鋲打ち。作業員の中に囚人がいて驚いた。工場で使用すべき部品が来なくて機体組み立て作業ができないとき、防空壕作りや飛行場にしていた競馬場へトロッコで土を運ぶ土方作業などを行った。空襲警報があると蛸壺壕(深さ2m)に避難した。
 1945年7月20日未明、約80分間の空襲。焼夷弾の落下音や敵爆撃機の飛行音が恐ろしかった。火災地域から火の粉が降ってくるため田畑がある方へ懸命に逃げた。夜が明けたら一面の焼け野原。実家は丸焼けになったが家族は無事だった。岡崎空襲の死者は280人、被災者は32000人。 (桑原勝美)

●8月4日(土) 高橋みな子さん(1935年生 83歳)「10歳の少女が体験した戦中戦後」

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 豊橋で少女時代を過ごした。真珠湾攻撃の前日12月7日、豊橋は大地震があり、終戦の年6月19日には豊川大空襲で、わが家は跡形もなく焼けていた。
 イナゴを捕って学校へ行きみんなで食べた。農家の人が食べている芋が羨ましかった。身体には蚤(のみ)シラミがつき、酢で駆除していた。そんなことでよくイジメられた。
 満州へ渡った叔母は引き揚げの時、ソ連兵から身を守るため頭を坊主にして男のようにして帰ってきた。母の弟は学徒動員で中国へ行ったが、終戦後シベリアへ抑留され、2年後に帰ってきた。帰った時、母と伯父は道端で抱き合って泣いていた。それは映画のシーンのようだった。身体を壊しており、結婚したが若くして亡くなった。
 先生をしていたもう一人の叔父は中国へ行ったが、帰った後で精神を病み、精神病院へ入れられた。母によると食料を調達するため現地の中国人を殺したと打ち明けたという。この話は母が私にだけ話したことである。今私も初めて話します。その伯父の娘は精神科の医者になった。 (宮木明代)

●8月5日(日) 木下冨枝さん(1936年生 84歳)「広島原爆」

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 1945年8月6日午前8時15分、広島市内の自宅で教科書を読んでいる時被爆した。爆心地から1.2km。外へ出ると街はすっかり無くなっていた。教員の姉は走って戻ってきたが背中の服が燃えていた。
 家族で逃げる途中「黒い雨」を浴びた。家の下敷きになって助けを求める人を助けることもできなかった。多くの人が水を求めて川で息絶えていった。川は死体で埋めつくされ、私は水を飲むこともできなかった。
 戦後、「戦争を早く終わらせるため原爆が使われた」と聞き、ショックを受けた。しかし、戦争を早く終わらせるために一般人を大量に無差別に殺傷することは絶対許されない。我が子にも放射能の後遺症や差別を恐れかくしてきたが、次世代にこの悲惨・地獄図を語り継いでいく必要を感じた。二度と核兵器を使わせてはいけないと決意し、こうして皆様にお話している。 (長谷川保郎)

●8月7日(火) 澄谷三八子さん(1938年生 80歳)「名古屋空襲」

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 当時熱田区に住む。5月17日、B29が516機来襲、焼夷弾の降る中、兄10歳、弟5歳、2歳の弟を背負った母と防空壕に入る。以前から空襲があり、すぐに行動できるよう、寝る時も服を着たままだった。隣にあった神社が炎上していた。危険が迫ってきたために外へ出る。炎はすぐ後ろに迫っていた。前の川に木材を積んだ舟が何艘かあり、人々が次々に乗り込んでいた。引き潮に合わせタイミングよく乗る。火除けに薄い布団を被って下の子を背負っていたが、その子は火の粉を浴びて眉が焦げていた。初めて喋った言葉が「あつい」だった。一晩かかって向こう岸に着いた。
 次の日、家があった場所を探しに行く。縁の下に入れてあった一升瓶が溶けて飴のように固まっていた。父と再会。その後、東海市へ。母が買い出しで、せっかく手にいれたジャガイモを家の前で休憩していた兵隊さんに差し出したときはとても悲しかった。
 2学期になり、着ていく服がなく、母が父の服を直してピンクのボタンをつけてくれたが、いじめられた。その時の先生がやさしかったので、先生になろうと一生懸命頑張った。戦争は絶対あってはならない。 (大久保清子)

●8月9日(木)神谷則明さん (1950年生 67歳)「父が語った悪魔の731部隊」

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 先の戦争で関東軍の731部隊に属していた父上のお話でした。
 父上は、731部隊の蛮行を「口外するな」という軍隊からの命令で、戦後50年もの長きにわたり、それを封印していました。しかし書籍の出版などで世に知られるようになり、父上も沈黙を破り、語りはじめました。それを聞いてきた神谷さんも、父上の遺志を受け継がねばとの強い思いで、1994年から語り部として活躍しています。その内容は731部隊の実情を軸に、過去の戦争の姿を深く掘り下げています。それは同時に平和の大切さ尊さを考えさせるものでもあります。そんな意味で、今日も若い人たちの参加が多かったことは、意義深く、嬉しく思いました。 (瀬戸暢子)

●8月10日(金) 中村桂子さん(1953年生 65歳)「父(勝廣)の沖縄戦」

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 父・勝廣は1944(昭和19)年8月に中国戦線から沖縄に移動しました。1945年4月嘉数(かかず)高地の戦いに際して、戦車への体当り攻撃を指揮しました。体当りした部下たちが粉々になって死んでいくのに衝撃を受けました。自らも右腕を負傷し、糸数アブチラガマに収容されました。さらに破傷風にかかり、九分九厘、生き残る可能性がない状態でしたが、奇跡的に生き延びました。
 父にとって戦争による悲惨は死ぬまで続きました。生きる苦しみでした。「僕だけが生きて悪かった」「どうしてあんなに人を殺したのだろう」。毎晩うなされていました。父は毎年沖縄に供養に行っていました。父は「今度生まれるときは平和の時代に生まれたい」「戦争が始まったら逃げなさい」の言葉を遺しました。 (野田隆稔)

●8月11日(土) 乳井貴さん(13歳)・野間宏さん(79歳)「八木湧太郎君『おじいちゃん戦争の話を聞かせて下さい』」

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 4年前、小学校5年生の息子が書いたスケッチブックを持って、ピースあいちに女性が来ました。90歳のおじいちゃんが10歳の孫に語る戦争の話です。湧太郎君のこの自由研究は、後に本になりました。それを2人で朗読しました。
 「おじいちゃんは20歳の時に徴兵検査を受け、フィリピンでパイロットに天気を教える仕事をしていた。アメリカ軍の攻撃がひどくなったのでジャングルの山の中へ入った。食糧がなくなったら、デンデン虫、ミミズ、なめくじ、ゴキブリ、野ねずみ、ヘビを食べた。8月15日は日本はまだ戦っていると思っていた。敗残兵狩に見つかり捕虜生活。昭和21年11月、永川丸で名古屋へ引き揚げ。300円(当時みかん一盛30円)と軍服、オーバー、切符をもらった。おじいちゃん死なないでくれてありがとう。おじいちゃんがいたからぼくがいた。」 (川北純子)

●8月12日(日) 目崎久男さん(1993年生 85歳)「非国民と罵られたサイパン島帰りの少年」

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 1940年サイパン島では、「日本は近々アメリカやイギリスと戦争になる。民間人は内地へ帰るように」というのが常識でした。12月末東京に帰り、麹町小学校2年に転入。学校で、「アメリカやイギリスと戦争になる」などと話していたことが“特高”に知られ、父は逮捕、勾留されました。玄関の脇や塀には、「非国民の家」「スパイ」の落書きやビラ。学校では、私は「スパイの子」。担任の先生からも口に赤いテープを×に貼られ「非国民」と罵られました。
 1941年夏、私たちは名古屋市に引っ越しました。12月8日に始まった太平洋戦争は、1945年8月15日敗戦。その夜、暗闇の中でキラめく電灯の光が、私には「明るい未来の希望」のように思えたのでした。 (小田鑑彦)

●8月14日(火) 河村廣康さん(1923年生 94歳)「シベリア抑留」

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 春日井の生まれ。1944年関東軍に入隊、翌年瀋陽(昔の奉天)で終戦を迎えた。8月15日武装解除された。その後捕虜となり、シベリアへ。バイカル湖の西タイセットから40キロ北の第四収容所に入れられた。収容所はバラックで寒かった。だいたい5℃くらい。電灯・ペチカも一個だけ。着替えもなく、不衛生で、発疹チフスが流行って亡くなった人も多い。二人で松の木を一日3本切って枕木を作るのがノルマ。食事は黒パン一切れくらい。おかずはバイカル湖の魚で、腐った匂いがした。
 栄養失調でバタバタ人が亡くなった。私の戦友も夕食時、「おい、パンが来たので食えよ」と言ったが、黒パンを胸に抱きしめて死んでいった。亡くなった人を思うと本当に胸が詰まる。 (稲田浩治)

●8月15日(水) 鈴木隆充さん(1936年生 82歳)「兄の戦場体験」

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 1943(昭和18)年、海軍は航空兵不足を解消するため、全国の(旧制)中学校に予科練習生を強制的に割り当てた。兄が通っていた愛知一中には47名が割り当てられた。はじめは生徒たちの反応は冷ややかだった。志願者の少なさに焦った軍部は7月に700人の生徒を柔道場に集め、軍人たちが「時局講演会」を開いた。校長、配属将校が檄を飛ばし、「お国のために役に立ちたい」と使命感に目覚めた生徒たちは次々と志願を誓うという状況が生まれた。兄もその一人でした。父親は必死に志願をやめさせようとしました。他の生徒も親の反対などがあり、結局、愛知一中では兄を含めて13名の志願となった。兄、15歳の時でした。
 予科練(少年飛行兵)となった兄は1945(昭和20)年5月、沖縄方面の海域で敵機と交戦し亡くなった。訓練期間中は父に年60通もの手紙を書き、軍の検閲を通った手紙は通り一遍の文面でしたが、検閲を回避した手紙では弱音を吐き、欲しいものをねだるなどのわがままを言っていたといいます。 (原田拓郎)