民間空襲被害者、いまだ救済されず 社会の関心も薄れ      
全国空襲被害者連絡協議会副運営委員長 岩崎 建弥



新聞記事

全国空襲被害者連絡協議会の活動に関する新聞記事 
(2018年5月20日付 毎日新聞)

 

 先の大戦の日本空襲で死傷した民間人は「軍人や軍属と違い、国と雇用(使用)関係がなかった」という理由で、未だに国の援護を受けられないでいます。一方、死傷した元軍人らには60兆円もの補償がされました。これに「差別だ。民間人も空襲から逃げないで火を消すよう命じられ、使われた」と、民間人救済の戦時災害援護法制定の運動を始めたのが、名古屋空襲で大けがをし、一昨年亡くなった杉山千佐子さんでした。
 法案は1973(昭和48)年から16年間に14回にわたり野党により国会に出されましたが、政府与党の反対ですべて廃案にされ、その後、運動は停滞しました。
 運動が再開されたのは2010(平成22)年、杉山さんの運動を継いで、東京空襲の被害者を中心に全国空襲被害者連絡協議会(全国空襲連)が結成されてからです。翌年、運動に協力する国会議員による空襲議員連盟が発足、その後、二度の政権交代などの曲折を経て、現在は60人余の両院議員からなる超党派空襲議連(会長・河村建夫元官房長官)が活動しています。

 議連は各党から選ばれた実務者会議を軸に、関係省庁、法制局の参加も求め、法案作成の最後の作業を進めています。昨年4月には総会で法案の骨子素案を承認し、各党に持ち帰って調整したうえで法案にまとめ、国会に提出というところまでいきました。ところが、与党の一部から異論が出され、また森友・加計問題などで国会が紛糾した影響もあってストップ、ことしの国会も同じような状況で、法案作成にも至っていません。
 法案骨子素案の内容は、大きく次のようなものです。

一、空襲により重傷を負った障害者に、一律50万円の一時金を慰藉(いしゃ)の精神で支給する。
一、国立の慰霊施設をつくる。
一、空襲被害者の全国実態調査を行う。

 これに対し、被害者からは、
①長年苦しんできたのに50万円の『見舞金』支給で済まそうとするのは理解できない
②死者(の遺族)や保護者を亡くした孤児が対象に入っていない
③わびる言葉がない
―などの反発が起きています。

 

 また、与党内には、
①戦後処理はシベリア抑留者への特別措置で終わったと政府与党間で確認している
②障害者の範囲がはっきりせず、いまとなっては被害の認定が難しい
③空襲被害者の要求を認めると、さらに新しい戦後処理問題が出てくる可能性がある 
④政府の財政負担が大きい
―など、法成立にブレーキを掛ける動きが見られます。

 全国空襲連としては、まず年老いた障害者の救済を優先し、順次、遺族、孤児らへと広げていく考えで、カギを握る与党の議員に対しては各選挙区での働きかけに力を入れています。河村議連会長は先ごろの全国空襲連との会談で、「急がなければならない。障害者の範囲が一番の壁だが、乗り越える腹案はある。私は民間空襲被害者に何らかの形で応えないと、戦後の清算はできないと考えている」と話し、法制定に強い意欲を示しました。良識派といわれる河村会長は76歳、戦時中の生まれです。
 その半面、戦後生まれがほとんどの議員の中には、与野党を問わず戦争は遠い過去のことと考え、全く関心を持たない人も少なくありません。また、国の戦争責任を認めようとしない人たちもいます。
 戦後73年、杉山さんが運動を始めてからでも45年たちました。新しい救済法案は、精神においても内容においても、元軍人や軍属並みの補償を求めた戦時災害援護法から大きく後退しました。

 時代は昭和から平成、そして新しい時代に変わろうとしています。それなのに、欧米ではごく普通に行われている官民平等の戦争被害者援護もできないでいて、日本は「民主国家」、「人権尊重の国」を標榜(ひょうぼう)しています。情けないことです。そして、それを許しているのが、隣人の痛みを共有できない私たち国民であることも否定できません。
 101年の苦難の生涯を閉じた杉山さんの最期の言葉は「もういい。棄(す)てられたままで…」でした。