現在も大学施設として活躍している戦争遺跡 
◆名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所本館
運営委員 金子  力       

                                           
 

 春日井市鷹来(たかき)町にある名城大学農学部附属農場は、農学部の実習実験の施設として現在も活躍しています。農場で生産された農畜産物は新鮮で安価ということで、平日と土曜日の販売時間前には行列ができるほど市民に好評です。
 農場となった場所には、かつて名古屋陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)鷹来製造所が設置されていました。戦後は国有財産となった土地を1950(昭和25)年、名城大学が農学部附属農場として借用、1960年代に国有地の払い下げを受けて現在に至っています。70年近く農場として使用されてきたので、造兵廠時代の面影が随所に残されています。
 なかでも鷹来製造所の司令塔であった「本館」は、現在も農場の管理施設や教室として使用されています。愛知県の最新の公刊県史である『愛知県史 別編文化財1』には県下の戦争遺跡が取り上げられていますが、陸軍造兵廠鷹来製造所の本館も県下に残る貴重な戦争遺跡(文化財)として紹介されています。

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写真左:本館内では農学部の資料(農具)展示  写真右:製造所当時の様子を伝える階段廊下

  「造兵廠」という言葉は戦後使われなくなりましたが、陸軍直営の兵器製造工場のことで、「砲兵工廠」「工廠」とも呼ばれてきました。1877(明治10)年頃には東京と大阪に砲兵工廠が設置されます。1879(明治12)年には東京で小銃生産、大阪で大砲などの生産と役割分担をします。また、生産した兵器を保管配送する補給部門もつくられました。
 1894(明治27年)の日清戦争以降、政府は軍備拡張を進めていきます。経済発展もあり、東京・大阪・名古屋など城下町に発電所が設置され、近代工業が発展します。なかでも兵器生産は日本の近代機械工業の一角を占めて成長しました。以下、『名古屋陸軍造兵廠史・陸軍航空廠史』から名古屋造兵廠の歴史をたどってみると次のようです。

 名古屋に初めて工廠が設置されたのは1904(明治37)年のことです。東海道線熱田駅の東に東京砲兵工廠熱田兵器製造所が設置されました。1904年は日露戦争が始まった年です。日露戦争で使用する兵器増産のための兵器工場でした。
 第一次世界大戦が始まると、熱田製造所に隣接した高蔵(たかくら)に大阪砲兵工廠名古屋兵器製造所が1917(大正6)年に設置され、最新兵器である軍用機のエンジンや4トントラックの生産が始まります。さらに1920(大正9)年には千種に東京砲兵工廠名古屋機器製造所が設置され、名古屋の工廠は3か所となります。
 特に軍用機の生産は熱田(機体)と千種(エンジン)で行い、各務ヶ原(かがみがはら)で試験飛行する体制ができました。さらに軍用機の大量生産をするために、三菱重工業や愛知時計などの民間企業が軍用機生産に参入を促します。こうして、名古屋は小銃から軍用機までを生産する全国有数の軍需産業の中心地となります。

 
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戦後、元従業員によって建てられた碑

 1937(昭和12)年日中戦争が始まると、兵器の不足が問題になりました。陸軍は1938(昭和13)年「銃器多量生産研究委員会」を編成して、小銃の多量生産をするための工場をどこに設置するか検討します。「広大な敷地の確保」「輸送に鉄道が使える」として、中央線の春日井駅に近い鳥居松に製造所を設置することを決めます。1939(昭和14)年のことでした。続いて1941(昭和16)年、小銃の実包(弾)を生産する製造所を鷹来に設置しました。同時に中央線から鷹来までの軍用鉄道を敷設しました。
 こうして庄内川を越えた春日井に二つの巨大な軍需工場が出現、1943(昭和18)年には4か町村の農村が合併して「軍都春日井市」が誕生しました。同じ日に、4か町村が合併して工廠翼賛都市豊川市が誕生しました。ここも豊川海軍工廠の設置が市制施行のきっかけとなっています。

 やがて、春日井に設置された陸軍造兵廠の二つの製造所にもB29がやってきます。鳥居松製造所は1945(昭和20)年3月25日に空襲を受け、従業員26人が犠牲となりました。次いで敗戦の前日8月14日午後には4.5トンの模擬原爆パンプキン3発が投下され、従業員と市民合わせて7人が犠牲となっています。
 鷹来製造所が受けた唯一の空襲は、8月14日の模擬原爆パンプキン1発でした。第三工場が大破、破片は300m飛び散りましたが、工場外への避難が早かったので犠牲者はでませんでした。(春日井の戦争を記録する会『模擬原爆と春日井』より)

 
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写真左:名城大学農学部附属農場の本館 時計台に残る陸軍の星のマーク  写真右:本館屋上のカムフラージュは今も残っている

 先日、戦争の歴史や春日井市誕生の歴史の舞台となった名城大学農学部附属農場を見学する機会がありました。名城大学経済学部渋井教授の案内で、当時の階段や廊下がそのまま残っている本館内部を見学しました。建物の屋上には偽装のため草が一面植えられていた跡もありました。農場だけでも広いのですが、かつての製造所跡は鷹来中学校、春日井市清掃事務所、名古屋水道局春日井浄水場、パナソニックエコシステム、日本通運、春日井市総合体育館などに変わっていて、鷹来製造所の広大さが伺えます。今も旧155号線に架かる軍用鉄道の鉄橋が残されています。

 鷹来製造所の総面積は、第6工場(現在の陸上自衛隊春日井駐屯地)含めて約30万坪で、名古屋陸軍造兵廠の7つの製造所の中で最大の規模でした。ちなみに2位は鳥居松製造所で約26万坪でした。熱田(8万坪)、高蔵(8.2万坪)、千種(5.9万坪)となっていて春日井の二つの製造所の規模が突出していたことがわかります。(名古屋陸軍造兵廠記念碑建立委員会『碑の建立と思い出』より)

 戦後、米軍は名古屋陸軍造兵廠について詳細な調査を行い、『米国戦略爆撃調査団報告書』として公表しています。原文は日本の国会図書館がデジタルコレクションとしてインターネットで公開しているので閲覧することができます。国会図書館、国立公文書館、防衛省防衛研究所には名古屋造兵廠が戦後米軍に提出した報告書『合衆国戦略爆撃調査団提出書類』『終戦直後の造兵廠現況綴』等、戦後米国から返還されて公開されている資料もあります。

 戦後70年以上経過してから新たに発掘・公開されたこうした資料とともに、戦争遺跡を保存活用していくことも、再び戦争を起こさないためにも大切なことだと考えます。
 今年6月、愛知県豊川市が敗戦前の8月7日に県下最大の空襲犠牲者(26分間の空襲で2,500人以上が犠牲となる)を出した豊川海軍工廠跡地の一部を平和公園として、現地に残る戦争遺跡を保存公開することが決まっています。今回見学会が催された鷹来製造所跡も公式に保存公開されることを願っています。

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写真左:講義を受ける名城大の学生と社会人 写真右:屋上で説明を聞く参加者