講演「杉山千佐子とは何だったのか~生涯をかけ日本社会の歪みを告発~」       
全国空襲被害者連絡協議会副運営委員長  岩崎 建弥



杉山千佐子追悼―「名古屋空襲と戦傷者たち」展 (2018/2/27~5/19) 関連企画として、4月14日にピースあいちで岩崎建弥さんによる講演会「杉山千佐子とは何だったのか」を開催。東京や大阪など、遠くからも多くの来館者がありました。講演の主旨を掲載します。

展示室

ピースあいちで報告する岩崎さん(4月14日)

 彼女は小学校を出て奉公した後、17歳で名古屋大学医学部に研究補助員として勤め、29歳のときに空襲で左目失明などの大けがを負いました。戦後は寮母や化粧品のセールスなどをして食いつなぎ、国の援護を待ち続けました。しかし、1952(昭和27)年、占領が終わって日本が主権を回復しても、補償されたのは元軍人らだけで、民間人は除外されました。
 「差別だ」と杉山さんは憤り、1972年に全国戦災傷害者連絡会(全傷連)を立ち上げました。運動は全国に広がり、マスコミや労働団体も支援に乗り出しました。翌年、民間被害者救済の戦時災害援護法案が社会党により国会に提出されましたが、審議未了で廃案に。その後、1989(平成元)年までに都合14回提出されたものの、すべて政府自民党の反対で流れました。
 その理由は「軍人らと違い民間人は国と雇用関係がなかったから、補償する義務はない」、つまり「国は公務員しか面倒を見ないよ」というのです。国の行為によって国民に被害を与えたのにもかかわらず国民を国との身分関係で分け、一方を排除するなんて国は先進国では日本ぐらいしかありません。おまけに裁判に訴えた被害者に対し最高裁は「戦争という非常事態による損害、犠牲は国民が等しく受忍すべきもの」と切り捨てました。こうして被害者は、国家国民がよって立つ立法、司法、行政の三権すべてから見放されてしまいました。

展示室

 多くの会員は去り、支援のマスコミ、団体も減り、杉山さんは孤立無援の状態に追い込まれました。転機は14回目に提出の法案が廃案になった1989年に訪れました。テレビ局の取材で当時の西ドイツに行き、同国の空襲被害者救済の実態をつぶさに見たのです。日本で聞いてはいましたが、戦後5年の1950年に制定された連邦戦争犠牲者援護法は、国の戦争責任を認め、元軍人らと民間人を区別せず、援護の内容も平等で、かゆいところに手が届くような国民本位のものになっていました。日本の実情を話すと、同国の援護担当幹部は「経済大国なのに…」と驚き、被害者は「スギヤマ、日本に帰るな。残れ。この国はあなたを見捨てない」とまで言ってくれたそうです。
 帰国した杉山さんは、これまで以上に広島、長崎の原爆被爆者、沖縄戦の被害者、部落解放などの運動との連帯を強め、全傷連の運動をより大きな反戦、平和の運動へと転換していきました。同時に、中学生から大学生までの若い世代への語り継ぎにも力を入れるようになりました。

 そんな中で2010年、あらためて裁判に訴え、再び敗れた東京と大阪の空襲訴訟の原告を中心に、全国空襲被害者連絡協議会(全国空襲連)が結成されました。90歳半ばになっていた杉山さんは顧問に迎えられ、新たな立法運動の精神的指導者、シンボルとなったのです。
 戦後70年の2015(平成27)年、身体の不調を押して車いすで国会に出かけました。40年以上にわたって何百回も訪れた国会での最後の活動でした。全国空襲連の会員や支援の国会議員を前に、100歳とは思えない力強い声で訴えました。
 「私は日本人として死にたい」、また「世界では未だ戦火がやまない。平和で静かな世界になるようみんなで頑張ろう」と。日本人として死にたいとは、民間人も元軍人と同じように国に尽くした国民として認め、法律で援護し、思い残すことなく旅立たせてくれという意味です。

 翌年8月、食事も摂れなくなった杉山さんの最期の言葉は「運動はあきらめない。だけど体が動かない」と「もういい。捨てられたままで…」でした。相反する二つの言葉に、私は驚き、混乱しました。やがて「やれるだけのことはやった。あとは頼む」ということだと受け止めました。
 そのほぼ1カ月後、彼女は医師が勧めた人工の栄養補給を拒否し、衰弱死という「自死」を選んで旅立ちました。私は何ごとにもひるまず、常に尊厳を持って毅然と生き、そして死んだ彼女を誇りに思い、いま、その遺志を継ぎ、「民間空襲被害者救済法」を一日も早く成立させることに微力を注いでおります。