◆ボランティア雑感◆ピースあいちのボランティアになって  
ボランティア 松原 眞人            

                                           
 

  1944(昭和19)年1月23日。私が生まれた日です。大阪の天王寺動物園の近くの喫茶店の三男としてこの世に生を受けました。時はまさに太平洋戦争の真最中であり、この年月の頃、太平洋戦争は日本に有利な勢いのある状況(大本営の発表)の様でしたが、半年後の昭和19年7月にはサイパン島の日本軍が全滅したといわれています。サイパン島の玉砕を日本国民が知る頃、米軍はサイパン島を基地としてB29を先頭に日本の空を制圧しました。日本本土の主要な大都市は空爆に曝されるようになったのです。

  商店主の私の父は徴用に駆られ、母と4人の子は父母の実家のある田舎(福井県の片田舎・織田町)へ疎開しました。その時、父母は一時的な疎開という認識で、とりあえずの身の回りの物を持っての移動というつもりであったといいます。しかし、戦況は日に日に悪くなり(もちろん大本営はそのような発表をしません)、私が1歳を過ぎた頃、大阪は大空襲にあい、大阪の我が家は一夜にして灰燼と帰しました。
  大阪大空襲の少し前に田舎へ疎開した私達母と4人の子は命の危険に晒されることはなかったのですが、徴用に駆り出されていた父は火の海をかいくぐり命からがら私達母子の元に戻ってきました。しかし我が家の唯一の財産であり生活の糧を得るための住居兼店舗がなくなってしまった今、父は働き口求めて大阪へ戻っていき、母と4人の子は田舎で戦後を生きていくことになったのです。

絵はがき

ボランティア全体会でスピーチする松原さん

 さて、本日のメインテーマ「ピースあいちのボランティアとなって」の雑感でありますが、田舎の高等学校を卒業した私は、名古屋に住んでいた父の妹である叔母を頼ってこの地にやって来ました。私は運良く愛知県職員採用試験に合格し、19歳で愛知県職員になって以来40年を過ごしました。もとより田舎育ちで愚直一辺倒の私は、20歳の頃は憲法で戦争を放棄した日本が、何故、アメリカの空母や潜水艦の寄港を認めるのか、よく理解できなくて、愛知県平和委員会へ出向いて会員にしてもらいました。しかし、1年、2年と仕事をする中で「平和」という言葉を口にすることは公務員として不利な立場になり、不適切だと思うに到り、いつしか平和を求める気持ちを封印してきました。


 定年後10年程地域の自治会の役員やら、社会福祉推進協議会の役員、さらにはJAの地域協議会委員、そして市の農業委員等いろいろ参加させてもらいました。70歳を越えた頃から自分自身の心が満足できるようなことをしたいと思うようになり、「薬膳」についても少し齧ってみました。そんな時、たまたま妻がピースあいちで開催された「いわさきちひろ展」へ行き、戻ってきたとき「お父さん、何かボランティアを募集しているよ」といって「ピースあいち『語り継ぎ手の会』会員募集」というチラシを見せてくれました。私が長く封印していた平和への思いが、その時ポッカリ芽を吹くように私の心の中に頭を持ち上げて来たのです。

 そして、2017年9月23日「『戦争体験・語り継ぎ手の会』第一回例会」が開かれ、今後の活動の進め方の参考のため、応募者の意見聴取がありました。その時私は戦争体験がなかったためどのような語り継ぎができるか自信がないという話をしたのです。スタッフの一人丸山さんから「それならピースあいちのボランティアをやりませんか。ボランティアをやりながらどんな語り継ぎができるか探してみてはどうですか」という助言をいただきました。私は丸山さんのお話にすぐ飛びつき「ボランティアをやらせてください」と返事をしました。丸山さんはすぐに立ち上がって事務室へ行き「ボランティア申込書」を持ってきました。申込書に署名を終えて私はとてもすがすがしい気分になりました。ボランティアとしてまだ6ヶ月しか経っていませんが、私の心はウキウキです。
  2017・9・23は私の第三の人生のはじまりの日です。「ピースあいち創立20周年」を皆さんと一緒に誇り高く迎えることができるよう微力ながら頑張っていきたいです。

 何の特技も、これといった知識も持ち合わせていない私ですが、会館の掃き掃除のお手伝いならできます。よろしくお願いします。
 昨今では、3・11とか9・11とかよくいわれますが、私は8・6、8・9、8・15、3・1も日本人として忘れないでいたいと思っています。もちろん9・23もです。