3・11とは・・・◆すべてがあの日から始まりました      
伊藤 廣昭



ピースあいちで開催している写真展「福島原発大事故~7年後、避難者のいま~」 (2018/2/27~4/14)の関連企画として、3月10日、報告会「福島原発―避難者の報告と訴え」が開催されました。報告をされた伊藤廣昭さんに寄稿していただきました。

展示室

ピースあいちで報告する伊藤さん(3月10日)

 私達は、望むと望まざるとを得ず、強制的にふるさとを出ざるを得ない状況に追い込まれました。
 あの事故は一体何を産んだのでしょうか?
 この7年という時は何を我々にもたらしたのでしょうか?

 あの年の3月17日、30㎞圏内の南相馬市の全市民に避難指示が出されました。第一原発が爆発し放射性物質が拡散された結果として、あらゆる生活物資が入って来なくなっていたのです。食料も、そして避難して行くためのガソリンすらも。
 地元の病院に入院していた叔母は、あの事故の直後に亡くなっていました。私たちは亡くなっていた事も知りませんでした。親戚の一人は、孫娘を迎えに幼稚園に行った帰途、孫と共に津波に呑まれました。道の途中の橋が落ちていたのです。葬儀は半年も過ぎた夏の盛りでした。順番待ちだったようです。
 私は決して津波の災害を軽んじて言うのではありませんが、私が今ここにいる理由は東京電力第一原子力発電所の爆発をなくしてはありません。

 事故後、さまざまな聞き慣れない単語が飛び交い始めました。「ホットスポット」「シーベルト」「ベクレル」「全面マスク」等々。全て原発用語です。しかし、国にしても報道機関にしても当初使ってこなかった言葉があります。
「管理区域」
 彼等は決して使わない言葉のようでした。なぜ使わなかったのでしょうか?
 ここには法令で定められた明確な基準があります。使えば、それを根拠として法令に違反していることを認めざるを得ないという厳然たる事実が目前にあるからだと思います。

 私の家は除染が行われました。そして除染が完了したとの報告書をいただきました。普通に考えれば、除染完了とは、生活を取り戻せる環境が整ったことだと思います。ましてや何の情報や知識もない人たちはそう受けとめるのが当り前だと考えます。
 報告書の中に並んでいたのは、測定値の羅列とその脇に添えられた低減率だけでした。数値の持つ意味を教えてくれるものではないのです。南相馬市にある環境省に問い質すと、その基準値すら無きが如き返答でした。さらにその上部に聞き、ここでやっと20㍉Sv/年という値が出てきました。私たちはだれも認めていない数値です。 
※註 一般人の基準は、1㍉Sv/年 *Sv=シーベルト *1000μ=1㍉Sv
 病院で胸部レントゲン検査を受ける時、一回当たりの照射値は50μSvといいます。この解除基準値の20㍉Svとは、一年間で400回胸部レントゲンの照射を受けることと同じです。
 これで、誰かが言う安心安全な生活ができると思いますか?

 

 さらには、原発で働く人達は放射性物質の内部取り込みを防止するためにさまざまな対策を行っています。TVでご覧になるフィルターの付いた「全面マスク」もその一つです。でも、解除されたふるさとで生活をしている人達に対しては、国も県もまともな防護対策はしていません。
 今、花粉ではたくさんの人達が苦しんでいます。それよりさらに小さい放射性物質は風と共に飛び回っているものと思います。

 私の住んでいた町は川が短く、農業に不足する水を南隣の町の奥からいただいていました。分けていただいていた川の流れは、原発事故で飛散した放射性物質が一番降り注いだプルームの道筋と一緒です。
 国はこの流域に設けられたダムを修復し、私たちの田畑に流そうとしています。台風などの大雨の時は、濁った水の中にたっぷりと放射性物質が含まれていることでしょう。
 こんな環境下で収穫された作物を、誰が買ってくれると考えるのでしょうか?

     なぜあの事故から何も学ぼうとしないのでしょう?
     私たちは自分たちの子孫に残せるものがあるのでしょうか?
     あの原発事故は何を産んだのでしょうか?
     国は国策として原発を造り国策として国民を切り捨てる
     私はこれを国害と呼びたいと思います。