ピースあいち企画展「杉山千佐子追悼 名古屋空襲と戦傷者たち」と
西形久司さんの講演「私はひとつの眼からしか涙が出ない
~杉山千佐子と3月25日の空襲」の感想      
東京大空襲・戦災資料センター主任研究員 山辺昌彦



 
展示室

企画展示室

 2月27日の企画展初日に展示を見、西形久司さんの講演を聞いた感想を簡単に書きます。
 展示は、前半が「杉山千佐子とその生い立ち」、「杉山千佐子と名古屋空襲」であり、後半が「杉山千佐子―その闘い」「闘いを阻んだもの」「欧州諸国の戦争被害補償制度」という構成です。
 東京大空襲・戦災資料センターの昨年の特別展「空襲被災者と戦後日本」は、戦災傷害者の実像と、全国戦災傷害者連絡会を中心として空襲被災者のさまざまな運動を描いたものでした。後半の杉山さんたちの全国戦災傷害者連絡会などの運動の紹介は、東京の展示とも共通する内容が多いものでした。

 

 前半の展示はピースあいち独自のものです。「名古屋空襲と杉山千佐子」では、まず、杉山さんが被災した3月25日の空襲の実相を明らかにしていました。それまでの超高高度から工場への爆撃や、3月12日やそのやり直しであった19日の焼夷弾による市街地焼き払いの空襲とは違って、3月25日の空襲は三菱重工業名古屋発動機製作所への夜間低空からの爆弾による実験的な空襲でした。しかし、照明弾も役に立たないで、爆弾は工場をそれて市街地への爆弾投下となり、工場にはほとんど被害を与えないで、1800名以上ともいわれる死者を出す市街地空襲となりました。
 そして3月25日の空襲で、杉山さんは防空壕で生き埋めになり、救出されますが、傷を負い、治療を受けるという被害を受けました。しかし、キリスト教信仰の力もあって、強く生き抜いていったことも展示で紹介しています。

 

 さらに、防空法により、市民は消火に当たることが義務づけられ、逃げることを許されませんでした。水・砂・むしろ・バケツ・火たたき・鳶口など、通常の火災でも火を消せないような簡易な道具で空襲に立ち向かい、多くの市民が生命を奪われたことを紹介しています。ここの展示は、新たに提供された防空関係の写真や資料を使い、充実していました。

展示室

東京大空襲・戦災資料センターからお借りした
資料の展示

 後半は、説明パネルはピースあいち独自のものですが、展示品は東京大空襲・戦災資料センターに寄贈された杉山千佐子資料などを使っていました。全国戦災傷害者連絡会の実態調査や、戦時災害援護法の制定を目指した運動、ヨーロッパにおける戦争被害補償制度の調査などとともに、空襲訴訟や立法運動の紹介と、政府も国会も裁判所もそれらの闘いを阻み、民間の戦災傷害者を救済しなかったことに対する批判も展示しています。
 このように杉山千佐子さんにそくし、名古屋地域の空襲を踏まえた展示になっていることが特徴的でした。説明のパネルもすべて調査・研究により独自に作られたものであり、また、資料展示も見やすく配列し、分かりやすい説明を付けたものでした。

加藤さんと堀田さん

講演を聞く山辺さん(右奥)

西形久司さんの講演は杉山さんが被災した3月25日の空襲について、以下のような特徴を明らかにすることが主な内容でした。
 3月の大都市空襲は夜間低空からの焼夷弾の大量投下により、市街地を焼き払うものでしたが、アメリカはその「成功」をふまえて、夜間低空から飛行機工場を爆弾で精密爆撃をする一連の空襲を試みました。その最初が3月25日の三菱重工業名古屋発動機製作所への空襲で、4月2日の中島飛行機武蔵製作所や4月4日の立川飛行機などへの空襲に続きました。
 3月25日の名古屋空襲は工場からそれて市街地への爆撃となり、爆弾が多くの市民を殺傷しました。この被害は、3月12日や3月19日の焼夷弾による名古屋の市街地を焼き払う大都市空襲よりも大きく、名古屋の市街地爆撃では最大のものでした。
 これらの西形さんのお話の中で、特に夜間低空からの爆弾による飛行機工場への一連の精密爆撃に、東京の4月2日や4日の空襲が含まれており、これらの空襲の位置づけを明確にされたことは、私にとっても新たに教えられたことでした。