タイ北西部に日本軍が残したもの      
ボランティア 桐山五郎



 タイに移住された年輩の友人からの誘いを受け、1月末に二度目のタイ訪問をしました。
 友人宅でお世話になった後、ミャンマーと国境を接するタイ北西部に向かいました。ここが今回の目的地です。インドシナ半島中央部の奥深い山地で、谷間と山地が延々と続く地域です。75年前日本軍が構築した、この地に残る基地や施設・軍用道路を訪ねて友人とともに車で出かけました。

 

 タイの北西部の中心都市・チェンマイから車で北西部の山地に入りますが、東のチェンマイとこの山地との間には2700m余の山脈が横たわります。チェンマイからこの山脈を越えて西の奥深い山地に入ると、そこはタイ領とはいえミャンマーの影響を深く受けた地域でした。たとえば仏教では、寺院建築や仏像はみごとにミャンマー様式そのものでした。東のチェンマイで見られる寺院・仏像とは全く違います。
 北西部の山地は、日本の山地のイメージとは異なります。さして高くない数百mの山地が、幾重にも帯状に連なります。山地帯を流れる河川の流域にはひっそりと町と集落があり、水田が広がっています。しかしその山地の急斜面を車で登るとなだらかな平地があり、そこには多様な農業を営む集落があり、商店やガソリンスタンドが見られます。

 
加藤さんと堀田さん

 75年前、この北西部の山地帯に日本軍が駐留し、軍事行動をしました。そして、その軍事行動に失敗した日本軍は、この地にその証拠となるものを残して撤退しました。今も軍用道路、滑走路、兵站基地、野戦病院などの跡地が幾つも残ります。現在でも移動に相当な時間を要するこの地に、かつて日本軍は遠い遠い日本から、輸送船や鉄道、トラックを使い、軍事行動に必要な兵士・兵器・物資を輸送しました。
 この地の高みから西を見ると、ミャンマーの山地帯が望めます。実はその山々の向こうにインドのインパールがあります。日本軍が構築した基地からインパールまでは、直線でわずか600kmの距離。インパール作戦を見すえた重要な地域であったようです。

 日本軍が建設した軍用道路は、東のチェンマイから西の山地帯に通じています。300km程のこの道路は、クンユアムの兵站基地に物資と兵士を輸送するのに欠かせないものでした。短期間に幾重もの山地を測量し、図面が引かれ、道路は建設されました。日本軍は建設に際し、地域の住民を動員し激しい労働を強い、また軍が必要とする物資の調達には、軍が発行した軍票が使われました。建設にはたくさんの住民の命を奪ったので、この道路は「白骨街道」ともいわれています。
 この軍用道路の途中に日本軍がつくった鉄橋があります。この川は川幅も広く、流水量も多いので、鉄橋となりました。リベットと名づけられた工法で鉄組みが固定されていて、今も丈夫な姿を残していました(鉄橋は歴史遺産として保存)。

加藤さんと堀田さん

 現在では軍用道路は改修され幹線道路となっていますが、その途中に日本軍が兵站基地としていたクンユアムがあります。ここには日本兵の遺品(武器・飯ごう・衣類など)が保存されている博物館があります。ここに日本兵が来たのは1942年のことで、やがて軍用道路の建設が始まりました。クンユアムからミャンマー国境までは、わずかに15kmの道程です。ミャンマーへの入り口にあたるクンユアムに、先の軍用道路がつながっています。皮肉なことにインパール作戦に失敗すると、今度はここはミャンマーから敗走する日本兵の脱出口になりました。やっとこの地までたどり着いたけれど、命を落とした兵士がたくさんいました。その兵士たちの遺品が残されていたのです。

加藤さんと堀田さん

 その博物館の広場には、日本軍の軍用トラックが保存されていました。野ざらしになって赤さびた数台のトラックを見ていると、一台の車のエンジン部分が見えました。覗いて見ると、そのエンジンには「ニッサン」と刻印された文字がやっと読み取れました。

 

 戦死者の遺品からは失った一人ひとりの命が浮かんできます。ところが現地で滑走路や野戦病院などの遺跡や戦死者の遺品を見つめていると、自分の見方・感じ方が激しく変わっていきました。なぜ遥かな山奥に日本人の遺跡・遺品があるのか、どうしてここに…と考えると、ここまで人と物資を運び込み、命令を下した日本という国家があることに思い至りました。75年前に日本という国家は、兵士の動員・編成と物資の調達を整えると、この地まで輸送しました。そしてこの地で戦闘する命令を下し、兵士と物資をその戦闘に投入しました。この地で見たものと同じことが、日本軍の全ての戦闘地域で起こっていたのです。これが「国家による戦争」なのだと、異国の見慣れない山や川、小さな集落を見てやっと私は実感しました。国家の権力とその意志の凄さを思い知りました。

 生まれて初めて来た外国が、この山地帯だったという若者はたくさんいたに違いありません。遺品だけを残して戦死した彼らは、この地で何を見て何を考えたのでしょう。また、日本軍はその地域に住んでいたというだけで、日本と何の関わりもなかった人々の命や資源を奪いました。今回のタイ訪問は、「国家権力とは何か」を改めて考える機会になりました。