常設展より◆生涯を抵抗の人で通した桐生悠々      
ボランテイア 林     收



 ピースあいち2階展示室に「抵抗の新聞人 桐生悠々」のパネルがあります。新聞人とは、現在ではジャーナリストとして通称化されている肩書と言ってよいでしょう。 桐生悠々が新聞業界へ踏み込んだ第一歩は「下野新聞」の主筆として宇都宮へ赴任したことです。
 時は1902(明治35)年、30歳でした。 その後「大阪毎日新聞」「東京朝日新聞」を経て「信濃毎日新聞」へ主筆として入社、有名な「大逆事件判決批判」「乃木将軍殉死批判」の執筆を残すことになりました。
 さらに1914年6月、「新愛知新聞」の主筆として名古屋へ移転入社した直後、「電車焼打ち事件」に出くわすことになって「名古屋新聞」と論戦を交わすこともありました。

 
加藤さんと堀田さん

桐生 悠々

  

 「電車焼打ち事件」とは1914年9月6日、鶴舞公園で「電車運賃値下問題市民大会」が開催され、名古屋電気鉄道会社の方針に異を訴える市民5万が集結し、運賃を最低1銭・最高6銭とするなどの決議が行われたのち、大会は解散したものの興奮した群集はデモ行進を始め、市内に繰り出し各所で通りかかった電車(当時の市内電車)を襲撃・放火していった事件であります。

 

 1928年再び「信濃毎日」へ主筆として招かれ、1932年には「5・15事件批判」、1933年8月11日、有名な「関東防空大演習を嗤う」を執筆、この社説が軍部の弾圧を呼ぶことになって同年10月「信濃毎日」からの退社に追い込まれました。
 同年12月、悠々は名古屋(当時は東春日井郡守山町)へ戻り、新聞に対する軍部の統制強化に反発して小型の個人雑誌発行で対応するしかできなかったのです。

加藤さんと堀田さん

 具体的には名古屋読書会の設立を試み、翌1934年6月に「名古屋読書会第1回報告」の出版をスタートに、月2回の報告書発刊が始まりました。その第14回目から「他山の石」と改題し洋書の翻訳紹介を中心とした、タテ19センチ、ヨコ13センチ、ページ数30程度で、発行部数は毎回300~450部、定価は50銭で主に名古屋読書会会員を対象とされていました。

 

 ところが、悠々の意図する反戦・反軍の時事評論が載ることで読者の中の注目が集まりはじめると、これに立ちはだかったのが治安当局の検閲で、これによる発行禁止と削除の繰り返しは、出版の道を大きく立ち塞いでしまいました。「反戦思想醸成」「軍部の行動歪曲」「和平機運の醸成」などの理由で発禁とされた回数は1941年9月の廃刊までの7年間になんと24回に及ぶという凄さでした。新聞と違って月2回程度発刊の個人雑誌ですからその激しさがわかります。
 例えば、1935年3月5日に掲載された「広田外相の平和保障」が反戦思想宣伝扇動の理由で発禁となったのを皮切りに、1936年4月5日発行誌の「言論自由の再実現」が軍部の行動誹謗歪曲で、1937年6月5日の「治国平天下の前定要件」が反戦思想醸成で、1938年3月20日の「支那に対する我認識不足」が和平機運の醸成でそれぞれ発禁になっています。
 しかし、悠々は度重なる削除・発禁にもめげず、言論の自由を守る闘いを続けていきます。

 私生活においては男児6人女児5人の養育と教育を筆一本に託してきた悠々ですが、反戦平和の思想は生涯緩むことなく、1941(昭和16)年9月「他山の石」廃刊にあたり以下の辞章を残しています。

加藤さんと堀田さん

「他山の石廃刊の辞」原稿

  「他山の石廃刊の辞」原稿
拝啓残暑凌ぎ難き候に御座候にも拘らず益御健勝奉大賀候扨小生「他山の石」を発行して以来茲に八個年超民族的超国家的に全人類の康福を祈願して筆を執り孤軍奮闘又悪戦苦闘を重ねつゝ今日に到候が最近に及び政府当局は本誌を国家総動員法の邪魔物として取扱ひ相成るべくは本誌の廃刊を希望致居候故小生は今回断然これを廃刊することに決定致候初刊以来終始渝らぬ御援助を賜はり居候御厚情を無にすることは小生の忍び能はざるところに有之候へども事情已むを得ず御寛恕を願上候
時偶小生の痼疾咽喉カタル非常に悪化し流動物すら嚥下し能はざるやうに相成やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候  
昭和十六年九月   日     他山の石発行者 桐 生 政 次

 この廃刊の辞を書き残した悠々は、憂国の筆を握りながら9月10日逝去されたのです。

 下記の新聞記事は、毎年桐生悠々の命日に合わせ時宜を取り入れた特集編の最新版で、執筆記者は「今の日本が、悠々が身を賭して闘った戦前の雰囲気に近づいているのでは」と訴えています。

加藤さんと堀田さん

中日新聞 2017年9月9日付朝刊より (平和の会・守山より借入れ)
右下の写真は「他山の石」復刻版に目を通す悠々の孫の塩見郁子さん

 戦後、残された原稿をもとに「他山の石」を復元した全集の発刊がされていますが、資料不足のため復元できない号もあるようです。