私はひとつの眼からしか涙が出ない◆~杉山千佐子と3月25日の空襲~
ピースあいち研究会 西形久司
はじめに
「今は亡き」と、前置きを加えねばならなくなった杉山千佐子さんに対して、残された私たちはどのように向き合えばよいのでしょう。それは人それぞれに異なっているのかもしれません。私自身は、歴史の証言者である杉山さんが残した言葉を、さらには杉山さんの生涯にわたって消えることのなかった傷痕の意味を、歴史の文脈のなかで読み解いていくことが歴史家の務めであろうと考えています。
なぜ名古屋だけが……
杉山さんは1945年3月の名古屋を襲った空襲についてどのように語っているか――杉山さんの言葉をたどっていくにあたり、まずは1945年3月の空襲について簡単にふれておきたいと思います。
サイパン島などのマリアナ諸島に本拠を置く米軍B29部隊は3月12日に名古屋の市街地を爆撃し、その1週間後の19日にもう一度市街地を襲いました。これらは、3月中旬の10日間に日本本土の4大都市――10日東京、12日名古屋、14日大阪、17日神戸、19日もう一度名古屋――を、焼夷弾を使って夜間爆撃する「電撃作戦Blitz」の一環でした。このとき4大都市のなかで《なぜ名古屋だけが2度爆撃されたのか》――まずはこの謎から解いていきましょう。
一晩で10万人の生命を奪った3月10日のいわゆる東京大空襲について、戦後米軍がまとめた公刊戦史(THE ARMY AIR FORCE IN WORLD WAR II, vol.5)は“general holocaust”と表現しています。これは「東京大虐殺」にほかならず、実に正直な表現です。この爆撃から米軍が得た教訓は何だと思われますか?
それは、焼夷弾の投下密度を高め過ぎてしまった、そのために無効になった焼夷弾が出たはずだ、ということでした。言い換えれば、密度さえうまく調整すればもっと効率よく焼くことができたのに、ということになります。米軍の関心は10万人も焼き殺してしまったことではなく、費用対効果の方に向けられていたのです。
この教訓は早速2日後の名古屋で生かされ、3月12日の名古屋市街地に対する爆撃では投弾密度を2倍に拡大しました。焼夷弾の節約をはかったのです。その結果、かえって投弾が拡散してしまい、目標市街地を徹底して焼くには至りませんでした。それで1週間後の19日にやり直しの爆撃を行なったのでした。2度目の爆撃の結果は、米軍を満足させるものだったようです。このようにして3月中旬の4大都市を集中的に攻撃した「電撃作戦Blitz」のなかで、名古屋だけが2度の爆撃にさらされることになったのでした。
杉山千佐子さん著書
『おみすてになるのですか』表紙
この2度の名古屋空襲(とりわけ19日の空襲)について、杉山さんは次のように証言しています。
――19日の空襲の際に、当時の勤務先だった名大病院に駆けつけると「どの部屋も火傷患者が廊下まであふれて」おり、「顔も手も焼けただれ、身よりのない人は、着るものも焼けこげてほとんど裸に近い姿」でした。園井町の杉山さんの叔父は直撃弾を受け、「不動明王のように火だるま」のまま立っていたといいます。原爆写真集などで見るような、焼けただれた人たちが次々に名大病院に運び込まれるようすが目に浮かびます。この杉山さんの証言で注目したいのは、多くの人々がひどい火傷を負ったという点です。米軍が19日の空襲で投下したのは焼夷弾、つまり市街地に無数の火災を起こして都市を焼き尽くすために油脂などを詰めた爆弾ですから、杉山さんの証言はそのあたりを正確に表現しているのです。
3月25日の出来事
実は、米軍は19日の空襲のあと、もう一度名古屋の町を爆撃しています。3月24日の深夜から25日にかけてことでした。そしてこの時の空襲で杉山さんは負傷したのでした。その時のようすを杉山さんは次のように書いています。少し長くなりますが、そのまま引用します。
3月24日深夜から25日未明にかけて、名古屋市を襲った米軍機の攻撃は、それは恐ろしいものでした。……サイレンにせきたてられて、準備をしました。服は着たまま寝ているので、枕元にある靴を履いて出ました。……外に出ると、お化け提灯のような大きな明かり(注:照明弾のこと)が夜空にポッカリ浮いたまま、真昼のようにあたりを照らしています。……そのとき一瞬シーンとして物音一つもなく何か真空状態のような異様な感じがしました。あ、危ないと急いで防空壕に飛び込みました。と同時にグーッと土に押され身動きできなくなりました。250キロの至近弾で壕はつぶれ、生き埋めになったのです。私がふっと振り向いた瞬間にわっと爆風がきて、まともに顔に受けたからすぐ鼻の上部がわれて、左の目がつぶれちゃったというのはその瞬間に分かりました。よく覚えています、そのときのことは。すぐ後から土砂が流れて、柱が落ちてきて。両手は土の中で自由がきかず、足は柱に挟まり、メリメリと骨が砕けるかと思う痛さ、苦しさ、顔の傷口から流れ出す血潮を押さえることもぬぐうこともできません。……(杉山千佐子『おみすてになるのですか』65~67頁)
3月25日の空襲のとき、飛び込んだ防空壕は至近弾のためつぶれ、杉山さんは生き埋めになったのでした。より正確には、爆風を顔面に受けて鼻の上部から左目にかけて負傷し、その直後に崩れてきた土砂に埋まったうえに倒れてきた支柱に足を挟まれ、身動きができなくなったのです。この記述から、この日空から降ってきたのは、火のついた油脂をまき散らしてあたり一面を火の海に変える焼夷弾ではなく、爆風の威力で何もかも押しつぶし破壊してしまう爆弾であったことが分かります。
なぜ市街地爆撃に爆弾を使ったのか
通常米軍は、木造家屋などが密集していて燃えやすい市街地を攻撃する時は主として焼夷弾を用い、軍需工場などを攻撃する時は破壊力の強い爆弾を使用します。このことを米軍の資料で確かめてみると、3月25日の空襲では、やはり焼夷弾ではなく爆弾が使われていました。ここで2つ目の疑問にぶつかります。《なぜ米軍は市街地を攻撃するのに、焼夷弾ではなく爆弾を使ったのか、そしてその結果は?》という疑問です。この謎を解くためには、米軍資料を手がかりに、もう少し詳しく米軍の日本本土爆撃のメカニズムを調べてみる必要がありそうです。
解明のための手掛かりの第一は、10日間の大規模な「電撃作戦Blitz」のために、米軍はマリアナ基地の焼夷弾を使い果たしてしまったことです。米軍としては、船便で焼夷弾が補給されるまでの間、攻撃の手を休めるわけにはいかないので、爆弾による攻撃に切り換えることにしました。爆弾を使うなら、市街地爆撃ではなく軍需工場に対する爆撃のはずです。実際に米軍の資料によれば、3月25日は東区大幸町の三菱の発動機工場を目標にした空襲でした。ところが、日本側は三菱発動機工場への爆撃とは受け止めていません。大本営発表でも「市街地を無差別に爆撃」となっています。そもそも三菱発動機の従業員自身が、自分たちの工場が攻撃目標となっていたことに気づかなかったのです。つまり米軍は最初から市街地を狙ったのではなく、軍需工場を狙ったはずが、結果として市街地爆撃になった、ということなのです。
夜間精密爆撃という「実験」
解明の手がかりその2。それではなぜ米軍は、軍需工場を狙ったのに結果的に市街地爆撃となるような、ある意味で不安定な戦術を採用したのでしょうか?
それまでの米軍による日本の軍需工場に対する精密爆撃は、米軍が期待したほどの成果をあげていませんでした。昼間の時間帯に1万メートル近い超高高度からピンポイントで工場を狙うのですが、冬の日本列島上空に吹き荒れている高速のジェット・ストリームのために機体が流されてしまい、狙い通りに爆弾を命中させることができなかったのでした。一方で、3月中旬の「電撃作戦Blitz」では大きな成果をあげています。
そこで米軍は一つの「実験」を思い立ったのでした。つまり軍需工場に対しても「電撃作戦Blitz」と同じ戦術――夜間に低空から目標上空に進入して爆撃する――を適用したらどうなるか、という「実験」でした。3月25日の空襲はそのような(夜間精密爆撃という)「実験」の最初のものでした。広大な軍需工場とはいえ市街地に比べれば限られた面積ですから、目標を照らし出すための照明が必要です。25日の空襲では12日や19日の市街地空襲の15倍から20倍もの照明弾が使われました。杉山さんはこれについても、「お化け提灯のような大きな明かり」というわかりやすい表現を使ってきちんと証言しています。
25日以降、東京や静岡などの軍需工場を攻撃目標にして(31日に攻撃参加機数を絞って、もう一度名古屋の三菱発動機を狙っています)、この「実験」は継続されますが、いずれも米軍にとっては期待外れに終わったようで、4月4日を最後に「実験」は打ち切られました。ちなみにこの「実験」という語ですが、先に紹介した米軍の公刊戦史にexperiment実験と書かれており、米軍自身が使った言葉です。
解明の手がかりその3。それでは、なぜ3月25日の「実験」は「取るに足らない」結果となったのでしょう?――ちなみにこの「取るに足らない」negligibleという語も、公刊戦史のなかで「実験」を評価した際の表現です。
米軍の分析によれば、
①雲や煙によって視界が妨げられた
②米軍機のレーダーは信頼性が低く、目視により精密爆撃をするときに使用する照準器も夜間爆撃には不向きであった
③先導機が目印のために落とすマーカー弾がなぜか目標から外れてしまい、後続機はそのマーカーを目印に爆弾を投下した
という3つの原因をあげています。
おわりに
軍需工場に対する爆撃の効果を高めるために夜間精密爆撃という新たな戦術を試みたが、その「実験」は天候や技術的な不備のために「取るに足らない」結果に終わった。米軍は3月25日の空襲をそのように淡々と総括していますが、この日の空襲による死者は名古屋市内外で1800名に達し、これは、名古屋がこうむった市街地空襲としては最大規模です。
杉山さんも一命こそとりとめたものの、そのような空襲の被害者の一人でした。生前の元気な頃の杉山さんなら、「取るに足らない」と聞いたら烈火のごとく激怒したでしょう。スペイン内戦のときに「跪(ひざまず)いて生きるくらいなら、立って死んだ方がましだ」と叫んだドロレス・イバルリではありませんが、杉山さんも「ラ・パッショナリア」(情熱の女)でした。
空襲に限らず、戦争そのものが、一つひとつのかけがえのない人命や人生をもてあそび「取るに足らない」ものに変えてしまいます。杉山さんの著書のなかで、とくに印象に残る言葉があります。「私は、ひとつの眼からしか涙が出ない。だから、人の何倍も涙がでるんだな…」(『おみすてになるのですか』205頁)。近寄りがたいほどのオーラを発していた杉山さんですが、生涯を通していったいどれだけの涙を流されたことでしょう。この言葉のあまりに重い意味を、後に残された私たちは受けとめ受け継いでいかなければなりません。
そういえば、10年ほど前だったか、ある集会で、お見受けするところ70代と思われる男性が「最近は年のせいですっかり気力がなくなって……」と発言したところ、すかさず杉山さんは「あんたはまだ若い!」と叱咤(激励?)しました。杉山さんはそのときにすでに90歳を超えていましたから、その男性も勝ち目はありません。そう、101歳まで生きた杉山さんに比べれば、私たちの年齢はまだ2ケタなのです。若いのだから、弱音などはいている場合ではありません。天からは何もかもお見通しです。怠けたくなった時、天から雷鳴のような声が聞こえそうです――「あんたはまだ若い!」
*企画展「杉山千佐子追悼 名古屋空襲と戦傷者たち」(2月27日~5月19日)開催オープニングイベントとして、2月27日(火)午後1時30分~3時、西形久司さんの講演会「私はひとつの眼からしか涙が出ないー杉山千佐子と3月25日の空襲」を開催します。場所はピースあいち1階交流のひろば。ぜひご参加ください。