「腹話術」で、父の沖縄戦を語る
ピースあいち語り継ぎ手の会 柳川たづ江
柳川さんとふくちゃん
9月23日の「戦争体験・語り継ぎ手の会」結成のつどいで、父の沖縄戦の体験を腹話術でお話をさせていただきました。
おそらく、多くの方が、なぜ、腹話術で沖縄戦?って思われるでしょう。以前から取り組んでいる父の沖縄戦の語りを、趣味で始めた腹話術で相方の「ふくちゃん」と会話形式でやっています。
沖縄戦のどの部分をテーマにするか…今回は、テレビやゲームの世界と違うリアルな戦場の様子と悲惨な戦場体験した者が戦後、どんな思いで生きたかをテーマにしました。
父「日比野勝廣」の体験の一部は以下の手記を読んでいただくと概要がつかめると思います。
http://abuchiragama.com/survivor/41/
戦争体験者の方は、つらい過去を封印して語らない人もいますが、父は、比較的、戦争体験を語ることは多かったです。
でも、父の語りをよく聞いていると、戦争当時のことは、事細かに語ることができますが、その体験をして、自分が何を感じたとか、ましてや戦後の心の傷などは、まったく語ることはしませんでした。できなかったと言ったほうが正解かと思います。
語っている内容の奥に痛みがありますが、痛みの原点を言葉で伝えることは難しかったようです。
こんな語りの内容からもわかります。父は、皆さんに、激戦地の嘉数の戦いのことを語ります。「ばぁばぁーと敵兵を撃った、夜、見にいったら、丸こげになった黒い死体ばかりで不思議に思った、よく見ると黒人の兵士の遺体だった」と少し笑いを込めて話し終わります。この話はここまでしか皆さんには話しません。けっこう明るく話すため、黒人の人を焼死体と間違えた面白いエピソードに聞こえます。
実は父のこの証言の裏には大きな懺悔の気持ちが隠れています。ひもじさから自分で殺した黒人の敵兵が持っていた食料を奪って食べたことに心を痛めていました。
捕虜収容所で黒人の兵士が黄色人種である日本兵に親しみを感じ、タバコをくれたりして親切にしてくれました。軍隊で教え込まれた、敵兵は劣っている人間で殺してもかまわない憎い奴だと思っていた彼らは、実は自分と同じ「人間」であったことに気づきます。
「なんで、個人的な怨みもない人をあんなに殺したのかなぁ…」「あの人たちにも家族がいただろうになぁ…」と、ひとり言のようによく言っていました。亡くなる少し前につぶやいた言葉に「毎日、戦争のことを思い出すなぁ~、(人差し指を眺めて)いったい、この指で、俺は何人の人を殺してきたんだろう~」と言いました。銃の引き金の感触は何年経っても鮮明に指先に残っていたようです。
戦争の怖さは、戦場の体験だけではないです。その体験が、体(五感)の奥深く記憶に残りうずき、死ぬまで戦争から解放されないことです。
父は家族を大切して、優しい父親でしたが、どこか、家族と距離を置いていたように思います。4人の娘、10人の孫、当時3人のひ孫もいました。端から見たら、幸せな老後です。でも、少しも幸せそうではなかったです。
戦場で亡くなった人たちのことを思うと、自分は幸せになってはいけないと思っていたような感じがしました。父の口から、「生きて帰ってきて良かった」という言葉を一度も聞いたことがないです。
父は2009年7月29日に85歳で他界しました。父が亡くなって悲しかったですが、反面、娘たちは、やっとこれで日比野勝廣の長い長い戦争が終わったと、正直、安堵の気持ちがわいたのでもありました。
父が亡くなり、代わりに娘4人で、語り継いでいるわけです。あの時代に生きた人たちの想い、日比野勝廣の残した想いを伝えることが戦争を阻止することに繋がればと思います。
そんな中で、今回、私は腹話術でお話しをさせていただきました。語り継ぎの1つの方法だと位置づけています。ほかにも、本来の語りや文章で伝えていくことも大切にやっていきたいと思っています。