◆ピースあいちとともに10年◆ピ-スと私、そして加藤たづさんのこと       
ボランティア 田中 十四子



 1939年生まれの私の戦時体験は、無いに等しいものです。親が高齢であったため、名古屋にドーリットル空襲がある前から、縁故を頼って岐阜県の中津川に疎開をしていたからです。中津川は風光明媚なところで、豊かな自然に恵まれ、暗くなって家を閉め出されるまで、野山の中で私は幼児期を謳歌していました。
 とはいえ身辺から次第に物が不足するようになったこと、さらには夜、灯火管制で暗くした部屋。その中にいると、遠くにドド-ン・ドド-ンという不気味な音が響き、外へ出ると、遙か遠くの空が赤く染まっていて、母たちが名古屋ではいま爆弾が落ちていると話していることなどが身近に起こった恐ろしさでした。また親たちの日々の会話や様子から、配給や隣組への気遣いなどをめぐるどうしようもない閉塞感は、子どもの私にも十分に伝わっていました。
 戦後早々と名古屋に戻ってからは窮乏生活。父親の恩給だけが頼りの家計は、絶対的な品不足と信じられないほどのインフレの中ではどうしようもなく、父が趣味で集めていた骨董品を母がこっそり持ち出して食べ物に変えてきたりするため、家の中での不協和音が絶えませんでした。母の「戦争さえなければ」という悲痛な嘆きは、子どもだった私の胸に抜けない棘としていまだに刺さったままです。

 

 そんな私が50代半ば頃に、野間館長から次世代に戦争の真実を伝える資料館づくりをしないかと誘われ、賛同をして今日に至りました。その間のことは『10周年記念誌』などで述べられているとおりですが、大きな契機となった加藤たづさんとの出会いとお人柄について、少し書いてみたいと思います。

加藤さんと堀田さん

2007年3月、オープン前のピースあいちに来てくださった
加藤たづさん

 

 初めてお目にかかったのは「ミニ資料館展」を開催していた2005年4月29日のことで、たづさんの甥に当たられる方とご一緒でした。お二人とも大きな決断をなさろうというのに、少しの衒いも気負いもなく穏やかで、私たちの方がすっかり興奮してしまっていました。
 その後、何度かお会いして彼女の来歴やお人柄を識ることになるのですが、何度かお訪ねした愛西市のお住まいは、昭和30年代の質素な暮らしがそのままでした。2階常設展「戦時下のくらし」展示の町屋にある水屋戸棚は、当時たづさんが実際に使っておられた物です。
 結婚後まもなくご主人に先立たれ、自立に向けて助産婦などいくつかの資格を取り、日夜分かたず働きながら、その収入をこつこつと蓄財されたこともお聞きし、身の引き締まる思いでした。そんななかでも、古布を再利用した小物などで私たちをねぎらってくださる暖かいお人柄にも触れました。

 

 開館までの2年間、交通事故に遭われたこともありましたが、気持ちはいつも前向きで、私たちの進行状況をとても楽しみにしてくださっていたことも思い出します。
 開館の日には藤色のおしゃれなス-ツ姿で、とても満足そうでした。
 その後、かねてから用意されていた千種区内の老人ホ-ムに入居され、90歳をこえられてからは、時々館長とお訪ねすると、老化のためか一瞬怪訝そうな顔をされるのですが、ピ-スあいちに想いが至ると満面の笑みが顔いっぱいに広がり嬉しそうで、彼女がピ-スあいちの現状とご自分の判断に満足しておられることがよく私たちに伝わりました。
 その後、2014年1月に爽やかで充実した一生を閉じられました。

 ピ-スあいちも草創期から充実期に向かって歩き出しました。平和な世の中がいつまでも続くようにというたづさんの願いがさらなる発展をするように、頑張りどきのように思います。