「ピースあいち」とともに10年◆私のボランティア体験
運営委員 稲田浩治                                                

                                                
 

 「ピースあいち」でボランティアを始めて10年。もうそんなになるのかと信じられない気がする。初めて「ピースあいち」を訪れたのは、2007年6月16日「平和のための戦争メモリアルセンター」総会の日であった。会員にはなっていたが、5月4日の開館日は身動きがとれず、実態をまるで知らなかったからの参加であった。その席で私は質問をし、野間館長が丁寧に応じてくださったこと覚えている。
 その後ボランティアを希望し、事務局の松本銀子さんの下で見習い期間を経て、当番表に加えてもらった。

 

 時を同じくして、展示ガイドも面白そうだと思い、たびたびの講習会に参加し、団体見学の人たちの前に立った。ところが、その頃は戦争体験をお持ちの方が多く、パネルの写真や実物を見るやたちまちおしゃべりが始まって困惑、私より詳しいからそこは皆さんにお任せし、話が途切れたところで説明をするという按配だった。
 このガイド体験を通じて、私は戦争を知らない世代であることを痛感した。戦時中のことにはまったく無知。日本が始めた途方もない戦争については、零から学ぶしかないと思った。そういう点からして、「ピースあいち」は「学びの場」としての比重がどんどん大きくなっていったといえよう。それは単に資料館としての展示物に起因するばかりでなく、次々に開かれる企画展やそれに関連する講演会、戦争体験者の語り等にもよる。『武器を捨てよ』のズットナーや「原爆の図」の丸木位里・俊、『きけ わだつみのこえ』の上原良司、「骨のうたう」の竹内浩三など、「ピースあいち」で出会った人物は少なくない。

新聞記事

 また、びっくりするような体験もある。最近の例を二つ挙げておこう。一つは、2階の「学徒動員の写真におばあちゃんがいる!」という人が来館。しかも、その青年からケータイ電話を借り、その場で「おばあちゃん」こと酒井良子さんとお話ができたこと。
 現在89歳、当時は県一(愛知県立第一高等女学校、明和高校の前身)の生徒で、高蔵造兵廠にいたそうである。写真撮影のときは怪我をしていて眼鏡の子が作業に当たっていたが、機械は隣の酒井さんのものであったという。貴重な証言であった。

 

 もう一つは、これも先月の話であるが、名市大の女子学生から封書が届いたことである。中には、「なぜハトは平和の象徴になったのか」と題する小論文が入っていて、手紙には私から「ピースという名のタバコがある」とか「ハトが登場するのは聖書から」とかさまざまなことを教えてもらったという。
 そういえば、あの開館10周年記念の日、3階の展示室は見学者でごった返していたが、そこで「戦争の道具として使われたハトがなぜ平和のシンボルになったのですか」「なぜ鶴を折るのですか」と聞かれた覚えがある。私は咄嗟にうまく答えることができず、思いつくことを少しばかり話しただけである。しかも、後で間違ったことを言わなかったかと心配になり、調べたりもした始末。
 それはさておき、平和について自ら疑問を持ち、考えようとする若い人に出会えて嬉しかったことは確かである。