戦世(いくさゆー)の沖縄愛楽園から公衆衛生政策を振り返る 
沖縄愛楽園交流会館研究員 鈴木陽子



公衆衛生政策とは何なのか

 開国後、コレラ対策として始まった日本の公衆衛生政策は、1920年代、結核による死者の多さが大きな課題になった。特に20代に結核罹患者の多いことが、労働力、兵力を弱めることだと問題になった。このころ、欧米で議論された優生思想は日本でも盛んに議論され、生産力・兵力として力を発揮する心身ともに健康であることが価値あることで、健康に欠ける者は社会に負担を強い、害を及ぼすものとされた。
 公衆衛生政策は健康ではない者の拡大を防止することが重要な課題になり、感染症患者の隔離と「遺伝的」疾患者の断種・堕胎が議論された。ハンセン病政策は結核対策に合わせるかのように進められ、15年戦争が始まった1931年に、患者すべてを療養所に収容する癩予防法が制定された。

 
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戦世(いくさゆー)の沖縄愛楽園

 沖縄愛楽園の前身は患者自身の手で誕生させた沖縄MTL相談所である。その誕生は1937年であり、県に移管されて国頭愛楽園として開園したのは1938年である。1937年は日中戦争が始まった年であり、1938年には陸軍の肝いりで厚生省が創設された。兵力増強のための「健民健兵」と「優生思想」は密接に結びついた。

 1944年3月、2代目園長に着任した早田晧は「本島だけでも無癩の島にしたい」と意気込んで沖縄に来た。早田は愛楽園の医官に患者検診を命じ、医官は軍からガソリンの支援を受けて積極的に患家訪問を行った。
 同じ3月には沖縄に32軍が設置され、日本軍が沖縄に入ってきた。「本土決戦」に備えて米軍を沖縄にとどめておくための捨て石作戦をとった日本軍は、民家を兵舎代わりにする「軍民雑居」を進めた。
 その時問題になったのは家にいるハンセン病患者で、軍はハンセン病患者の収容に動いた。従軍日誌にはどこの家に患者がいるか、患者収容のためにどのように動いたかが記され、軍収容に動いた兵士は、のちに「最初の敵はレプラだった」と語った。愛楽園と軍は協力して収容に動き、5月には読谷、7月には伊江島で収容が行われた。この場所はともに日本軍の飛行場建設が進められた場所である。

 9月には、ハンセン病専門医で早田とも顔見知りの軍医日戸修一の指揮で、大々的な軍収容が行われた。定員450名定員の愛楽園は913名の入所者を抱えた。早田は食料の確保さえあれば入所者の不満は抑えられると食料の調達を考え、布団は入所者全員の布団をださせ、綿を半分にして900以上の布団を作るように命じた。また、「働かざるもの食うべからず」と手足の感覚がないため傷を作りやすい入所者たちに横穴壕を掘らせた。
 一方、応召によって職員が減少したため、早田は入所者が入所者を統制していく翼賛会自治会の組織化を命じ、32軍司令官渡辺、陸軍病院長広池、軍医日戸を招いて戦意高揚の訓話を行った。入所者たちは軍の高官が熱く語る「入所者は外地で戦う兵士と同じように、国のために戦っている勇者だ」の言葉を聞き、お国のために戦うことを期待されて気持ちを高ぶらせた。

 入所者は軍民雑居という沖縄の臨戦態勢から排除され、兵力を阻害する者として排除される者の自覚が求められ、愛楽園に収容された。そして、排除された場所で臨戦態勢を組織して生きることが求められ、それが勇者だと称えられた。入所者は排除された者であるからこそ、より、積極的に園外の社会で求められる規範に準じようとした。  戦時体制下、公衆衛生政策は兵力増強を目的とし、優生思想と結びついた。沖縄では軍の作戦遂行のために、軍が公衆衛生政策の実行者になり、愛楽園の協力のもと患者収容を行った。公衆衛生の「公衆」は「健康者」のみを意味した。これは決して過去の話ではない。


表紙

鈴木陽子さんには、ピースあいち企画展「知られざる沖縄の真実 -ハンセン病患者の沖縄戦」展の関連イベントとして6月24日に開かれた講演会「戦世の愛楽園―沖縄のハンセン病患者をめぐる差別・偏見・排除のかたち―」で講演していただきました。