「知られざる沖縄の真実 ハンセン病患者の沖縄戦」展準備の中で◆『ある日の出来事』       
ボランティア 桐山五郎



 

小さな新聞記事
 その「出来事」は、見過ごしてしまいそうな小さな新聞記事の中にありました(朝日1952〔昭和27〕.1.31)。

  名古屋駅でハンセン病患者が見つかったので、患者を「瑞穂寮に収容した」。患者は京都の男性会社員T(36歳)氏で、「東京へ商用で出張した」帰りに、停車した名古屋駅で乗客の通報によって見つかり、そのまま「収容」された。

この記事は、愛知県図書館にある新聞縮刷版から見つけました。

 
表紙

朝日新聞1952〔昭和27年1月.31日〕

 今年の「ピースあいち」の沖縄戦の企画は、戦前戦中に沖縄のハンセン病患者がうけた差別と偏見の苦難の歴史と、強制収容された施設で逃げることも許されなかった「沖縄戦」があったことを伝えることでした。また強制的に家族からも社会からも引き離された彼らの声にも、耳をかたむけようというものでした。
 京都の会社員T氏も戦前の沖縄の患者たちと同様に、ハンセン病ゆえに「収容」されました。この時代の「収容」は「終生隔離」です。いったん「壁」の向こうに行けば、もうこちらに戻ることはできません。家族とも社会とも、きっぱりと縁を切らざるを得ない場合もありました。隔離は法の示す内容でした(「らい予防法」など)。戦前の沖縄と同じことが戦後の名古屋にもありました。

 

 T氏が収容された「瑞穂寮」は、現在の地下鉄名城線総合リハビリセンター駅直近の「名古屋市総合リハビリステーションセンター」にありました。丘の上の寮は、戦前・戦後と名称を変え、今は名東区にある厚生院となり、生活困窮者救済の事業にあたっています。当時は収容者の多くは身元のわからない行き倒れ(行旅病人)や遺児などでしたが、ハンセン病患者を収容する別棟(4.5坪)もありました(1)。
 T氏の名が記入された書類はまだ見つかりませんが、市政資料館の公文書「名古屋市 保健福祉局統計年報 昭和27年」には、数値として記録が残されていました。その公文書から必要な数値(発生/死亡)を拾うと、27年度(12/0)、27年度1月(1/0)とあり、この1月の1が会社員T氏に違いありません。T氏は、乗客の通報で「下車を求められ」、「中村保健所員が調べ」、「ライと診断され」、その日のうちに「収容」されたのです。

小笠原登医師「ライは不治にあらず」
 この「出来事」の次の日に、別の「出来事」が愛知県下でありました。国立豊橋病院皮膚科の医師、小笠原登氏は、保健所職員にハンセン病の病症の真の姿を語り、地域の未隔離患者の状態を話し合っていました(2)。彼は、らい菌(ハンセン病の病原菌)は伝染力がきわめて弱く、菌に感染しても病気にならない場合があり、また治れば社会復帰できると考えました。

表紙

展示会場

 京都大学医学部の研究者であった彼は、治療と研究を重ね、先の結果を学会に発表しました。彼は反対がどれほどあっても、自説を曲げませんでした。戦後に大学を退職し、豊橋病院で治療している頃も、患者を守ろうとして、国の「終生隔離」には同意できませんでした。

 豊橋病院時代には、休日は生家である圓周寺に帰り、患者の治療にあたることもありました。情報の得にくいこの時代でも、患者は人づてに彼と圓周寺を知りました。遠く秋田県から治療を求めて来た患者もあり、遠来の患者は圓周寺に宿泊して彼を待ちました。
 週末は、土曜の午後に圓周寺に向かい、月曜の早朝には圓周寺を離れ、開院前には病院にいました。1951年9月15日(土)から17日(月)までの彼の三日間の行動は次のようです。15日(土)、半日勤務後電車で圓周寺へ。治療。16日(日)朝6時7分電車で往診に。夜まで。圓周寺泊。17日(月)4時50分起床。6時6分発の電車で病院へ。実に忙しい三日間でした。5月の3連休を使って岡山の患者の往診にも行きました(1952.5.3~5.5。4日は日曜日)。彼を必要とする人がおれば、遠くまで往診に出かけました。(小笠原医師の日記から)

 

 戦前から戦後の長きにわたり、国は法に基づいてハンセン病患者を見つけては、隔離しました。T氏の頃は、患者が「収容」されるとすぐに、保健所は患者の立ち回った場所や触れた物には消毒をしました。この消毒も法の示す内容でした。今では治療すれば治る病気ですが、保健所の職員が消毒する光景を目の当たりにすると、人々は恐ろしい病だと思ったのでしょう。人々は恐ろしい「伝染病」だから、「隔離」が必要だと考えるようになっていきました。T氏を通報した乗客も、国民の一人です。このように国民と官庁が協働して、全国各地で患者の隔離が取り組まれました(3)。
 T氏は収容されたあと、再び仕事に復帰できたのでしょうか。彼を待つ家族の元に戻れたのでしょうか。T氏と家族のことが案じられます。
 同じ時期に、小笠原登医師の治療活動がありました。彼の活動は永く記憶に残されるべきものです。患者と彼を苦しめた法が、廃止されたのは1996年でした。

 


(1)「厚生院五十年史」名古屋市発行
  別棟は、「らい予防法に依る一時保護収容」施設とある。
(2)小笠原登(1888~1970)。現あま市甚目寺の圓周寺に生まれる。
   2001年東京弁護士会人権賞・2007年甚目寺町名誉町民第2号を受ける。
(3)「無らい県運動」。患者のいない県をめざす取り組み。