「ピースあいち」とともに10年◆何か作業があったり来館者が多い日は気持ちが浮き浮き
ボランティア 野原 良和                                               

                                                
 

 「ピースあいち」でお世話になって10年になり、自分もやはり10歳年を取りました。15年戦争という言葉も知らないままボランティアに加わっていました。特に展示資料の説明はすることはないと聞き気楽に思ってもいたし、またガイドは別途養成されるとも聞いていました。 
 このころ母が認知症歴10年になっており、自分のできる範囲での参加を考えていました。母が老人保健施設に入っていた時代は、洗濯、食事の世話に月1回の帰宅を求められましたが、平成12年からの介護保険施設では洗濯だけになり少し気が楽になりました。

 名古屋空襲は母の背で2歳余。記憶は一切なく、「ピースあいち」で学習した。父の死後、軍隊手帳、2等兵招集時の日記が出てきて、父は敦賀、宇品、上海近郊の呉松、長江経由で中支の岳陽まで出征し戦争に加担していたことを知った。昭和14年ごろ三峡ダムのないころの長江を船で遡上して岳陽に駐屯し、夜の歩哨と教練が辛く、炊事当番は楽しかったと書いてあった。

 私は、2011年に重慶から上海まで、長江の船下りを体験した。武漢では田中総理の桜が寄贈されている武漢大学、黄鶴楼を見学したが、父の足跡は見当たらない。

新聞記事

内モンゴル自治区クブチ沙漠での植林活動(2011年)

 2002年から昨年までに、内モンゴル自治区のクブチ沙漠へ11回の植林活動に参加した。自分は現地人とは他愛のない話しかできませんが、植林は現地人のため、また日本への飛砂防止のために行なっているとの信念で、決して父たちの行為の贖罪ではないと説明する。一度の訪問であったが、北京大学の学生(29,000人)による構内案内の時、余計な質問をしてしまった。「日本の総理大臣小泉純一郎についてどう思うかと」。「ノーコメント」とはっきり答える。
 翌年の精華大学の学生(30,000人)は、「西部方面へ行きたい」と共産党の方針通りの回答をする。北京郊外の盧溝橋、燕平城、そして場内の抗日記念館をイヤホンガイドを持って見学した。「ピースあいち」の重慶、南京の写真と同じものが展示されていた。ここでボランティアをしていた学生に日本軍の行為、現在の日本について質問すると、「辛い時期はあったが、いつまでも恨んでいない」と言う。

 2012年5月30日の夜半、突如としてわが身に激痛が襲ってきた。ハリネズミのように固まっていた身が、病院での痛み止めでこの世に戻った。覚悟はしたが、数日後に宣告。胃袋を切除し、抗がん剤を服用し、体重の減少で意識に何かが渦巻き始める。
 「ピースあいち」に復帰すると、皆さんが温かく、また優しく接していただき本当にありがたく、幸せに感じた。もっと何かを、もっと人のためにと、でも煩悩のほうが強く押し上げてくる。以前に計画していた四国霊場88か所巡りを実行することにした。
 一日目にカリフォルニアの女医さんと会話をし、高知でカツオの塩叩きをいただき、足摺岬で太平洋の雄大さを味わい、愛媛で名物タルトをいただき、香川でうどんのうまさを味わい、鳴門の霊仙寺へ満願報告に行った。確認の墨書をいただき、「大変だったでしょ」と労いの言葉をいただいた。  

 「学童疎開」と「対馬丸」「はだしのゲン」「ベトナムの枯葉剤」「シールズ」「原爆の図展」など、数々のピースの企画がぼんやり、ふんわりと自分に迫ってくる。あと少しと思いますが、何時お迎えがやってくるか…。でもまだ早い、もう少し待ってくれと追い返して、「ピース」のボランティアを続けさせていただきたい。
 普通のおっさんで(いやジイジになったな)、何か作業があったり来館者が多い日は気持ちが浮き浮きとしてくる。多分、「ピース」のボランティアが楽しいのだろう。これからも、よろしくお願いします。