丸木位里・丸木俊「原爆の図」と市民が描いた「原爆の絵」展      
運営委員 斎藤 孝



「原爆の図」

 「ピースあいち」が発足して10年になる。この間、「丸木位里・俊夫妻の「原爆の図展」を二度(2012年7月28日~8月31日・2016年3月15日~5月7日)催している。
 今回の「幽霊」という図は、全十五図のうちの最初に描かれたもので、その展示は原爆投下から5年後の1950年2月のことであった。「第三回アンデパンダン展」(東京美術館)での第二室で、この時は「八月六日」という題であった。因みに初期における愛知県下での開催は次の通りである。1952年4月(豊橋市)・5月(名古屋市)・6月(岡崎市)・7月(碧南市)である(出典:『<原爆の図>全国巡回』岡村幸宣)。また、1986年には野間美喜子ピースあいち館長や宮原大輔事務局長らが中心となり、愛知県美術館で開催している。

加藤さんと堀田さん

  

 丸木位里さんが原爆投下後のヒロシマを訪れたのは、投下後3日目の8月9日だ。それは位里さんの身内の方の住まいが広島だったからである。両親が住まう家は爆心地から2.5キロほど離れた三滝(みたき)町(現広島市西区)という町で、弟一家は加計(かけ)町(現安芸大田町)に住んでいた。幸いにしてみんな無事であった。俊さんがやって来たのは10日頃のことという。

 

 幽霊は死者が生前の姿となって現れたもので、「死んだ人の魂」である。幽霊を見たとしたら、死んだ人が生き返ることはあり得ないから、それは幻覚である。丸木夫妻が見たのは幻覚ではなく、生身の人である。俊さんは、その状景を次のように述べている。少々長いがここに引く。
 「それは幽霊の行列。一瞬にして着物は燃え、顔や手や腹はふくれあがった。水ぶくれは破れて皮膚はぼろのように腕からたれ下った。やり場のなくなった手を半ば挙げて「痛いよ痛いよ」と人々は子供のように泣きながら群れて歩いた。妻も子も夫も,変わり果て、焼けただれたお互いを発見し合うことが出来なかった。黒い雨が、墨の滝のように、粉みじんに分解してくずれ散った家や道路や素裸の人々の上に降りそそいだ。折り重なった屍体、黒く焼けて歯だけ白い屍体。屍体は足のふみ場もなく全市に満ちて、やがて息もつけぬ程の匂いが風にのって流れた」(1950年2月24日の『婦人民主新聞』)

 

 「原爆の図展」としての最初の展覧会は、「第三回日本アンデパンダン展」の翌月、日本橋の丸善画廊(1950年3月22日~25日)で開催された。このとき、一流の識者は,「女を裸にしたり,男を裸にしたりするエログロ味が徹底的にくりひろげられる」と評した(『〈原爆の図〉全国巡回』/岡本幸宣・新宿書房)。つまり、裸体表現を「エロチック」といい、原爆の惨状を「グロテスク」と受け止めている。
 彼等は、この「幽霊」を「モノ」として見ていて、「コト」として見ていないと私は思うのだ。この「幽霊」は「原爆の絵」ではなく、「原爆の図」である。「図」は「文字や記号に点や線などを用いて面の上に書いたもの」(『新明解国語辞典』三省堂)で、「見られた図ではない」という言い方があるように、「好ましくない」という意もある。

 

 今回の展示期間中、丸木美術館の学芸員・岡村幸宣さんによるギャラリートークがあった。岡村さんは、「幽霊」の図を背にして話されたが、その図の解説ではなかった。「原爆の図」が描かれた背景を話された。丸木夫妻は暫くヒロシマに滞在し、9月に入っての枕崎台風のあと、東京に戻っている。帰宅後、「原爆の図」を描こうとは思わなかった。但し、のちに「原爆の図」に取り入れられたデッサンを描いている。それは8枚残っている。その中にはモデルとなったいわさきちひろ(岩崎知弘)の絵もある。 横座りの女性像2図である。ちひろさんは裸体になるのを嫌がったが、俊さんは苦にしなかったという。

 

 当時は連合国軍の治世下で、原爆のことは公表されなかった。朝鮮戦争が始まり、こんな絵を描いてはいけないと思った。しかし、ヒロシマで見た光景は隠されている。このため、二人は「原爆の絵」を描かねばならぬと思うようになっていったという。そして、「原爆の絵」をどう表現するかと考えた。そこで周辺の人々から体験を聴くことにした。岡村さんは世界古今の絵を紹介しながら、これまでの原爆の絵がキノコ雲とか焼け跡の全景、原爆ドームなど、風景ばかりである。そうしたなかで二人は、「大画面で人間の被害を描く」という考えが固まっていったという。
 俊さんの絵ができ上がったとき、位里さんはこの絵は面白くないといって墨を流した。俊さんは当然面白くない。ところが、墨が乾くと絵が生き生きとしてきたという。「原爆の図」は、二人の「共同制作」というよりもお互いの表現力の火花を散らせた「共闘制作」だと岡村さんは評する。こうして屍の山と幽霊の行列を加えると、人の数は150人を下らない。人のほかにも痩せた犬が1匹、鶏が1羽、牛が2頭描かれている。画面中央の母子像は印象的だ。「原爆の図」の展示会は、毎年全国各地で開かれている。それだけ国民の平和に寄せる思いは熱いのだ。

原爆の絵

 1975年なってNHK広島放送局がヒロシマの人々に被爆した状景を絵にしませんかと呼びかけた。その指導をしたのが、四国五郎という画家であった。「原爆の図」の巡回展が始まったのは1950年10月5日のことだ。会場は爆心地近くの爆心地文化会館「五流荘」である。このとき、展示会に協力したのが原爆詩人の名で知られる峠三吉を代表とする詩人サークル「われらの詩」のサークルであった。四国五郎も会員だった。その後、1952年6月に『原爆詩集』が刊行されるが、彼はその表紙絵を描いている。

 
加藤さんと堀田さん

  

 「原爆の絵」には「原爆の図」に劣らぬほどのインパクトがある。描いた人は1200人、寄せられた絵は2600点を数える。このうち、今回の「ピースあいち」での企画展では24点(コピー絵)を展示した。描き手は当時16歳とか17歳という人もいる。皆さんいずれも絵は素人であるが、見事な描きようである。被爆当時の悲惨な姿を目撃している人々である。その姿は鮮明のまま脳裏に残っていると思われる。そうでなかったらこのような絵は描けまい。わが子を庇うようにして抱きかかえ、そのまま熱線を浴びた若い母親、両手をだらりと下げて助けを求めに行く人の群れ‥。

 

来館者の滞留時間は長い。友人やグループで来ている人もいる。いずれも無言で見入っている。話をするにもひそひそ声である。なかには足早に通り去って行く人もいたが、あまりの痛ましさに眼を向けられなかったのかも知れない。しかし、こうした事態が今後とも起きないとは限らない。私たちは歴史から学ばなければなるまい。昨今日本の政治・外交状況を見るとき、私たちは眼をそらしてはならないと思う私である。
「ピースあいち」では今後、「名古屋大空襲展」、「ピースあいち10年のあゆみ展」、「ハンセン病患者の沖縄戦」、「いわさきちひろ展」の開催を予定している。当館のスタッフ・ボランティアは皆さんの来館を願っている。



ボランティア日誌より
 特別開館していた日曜日の昼下がり、「原爆の図」展を見に来てくれたほほえましい雰囲気の若いカップルに出会いました。二人は長い時間をかけ、「原爆の図」に向き合っていました。男性から絵に関する質問を受けたことがきっかけとなり、しばらくお話しているうちに、なんと二人は遠距離恋愛中であることがわかったのです。男性は九州から、女性は関東地方から訪れ、名古屋で落ち合ったとのこと。地下鉄名古屋駅でピースあいち「原爆の図」展開催中のポスターを見つけ、ここに行こうとすぐに決まったそうです。めったに会うことのできない二人はそのあまりに大切な時間を、ピースあいちを訪れることに費やして下さったわけです。二人の未来に幸多かれと念じながらお別れしたことは言うまでもありません。(ボランティア 安井真理子)

来館者アンケートから
母が広島出身で、当時は滋賀県大津市に住んでいましたが、原爆が落とされた翌日、広島入りし、母の母と弟を探し回りました。2人とも亡くなっていたそうです。母は、2000年に73歳で亡くなりました。生きている間、広島の原爆ことは、あまり語りませんでしたが、私が中3の時、家族で広島の原爆資料館へつれて行ってくれました。母が私たち姉妹に伝えたかったことは何だったのか、今日、また静かに教えられた気がします。(62歳女)

位里・俊の作品を知って、実際見て、いろいろ考えさせられました。他の作品はTVで見ましたが、こちらに又、展示されたら見に来ます。若い人たちに一人でも多く、見に来てもらいたいと思いました。(57歳女)

丸木さんの画は、以前から見たいと思っていましたので、念願がかないました。(66歳女)

貴重なというか、大事な歴史の事実を見せてもらいました。広島市民の原爆被害の絵は、生々しく、丸木夫妻の作品とは別の思いインパクトがありました。広島原爆資料館で見た事がありますが、このように各地(日本以外も)で公開される事は、大切な事と思いました。名古屋(愛知県)の空襲被害も詳しくは初めて知りました。(地下鉄一社から歩いてきたかいがありました)(69歳男)

原爆の図・絵は初めて、ゆっくりと見ました。「原爆許すまじ」の気持ちです。常設展示もよく分る展示と思いました。これからも続けて下さい。(79歳男)

「原爆の図」を見にきました。前回は赤い色が印象的でしたが、今回のモノトーン違った意味で印象深いです。「原爆の絵」は、実際の出来事がそのまま描かれているので、その光景を想像したら恐ろしくなります。(51歳男)

丸木氏の原爆の図、こんな近くで見れ、大変嬉しく有難く思いました。世界中の人々に見ていただきたく思います。改めて平和の尊さを伝えていかなくてはと思いました。(83歳女)

丸木夫妻の絵を見に来館しました。昨年広島に行った時に、旧銀行の地下で展示されていた市民が描いた原爆の絵を見て、これは日本のみならず世界中で見られなければならないものだと思いました。強烈に心にうったえるものがあります。先日沖縄に行った時にも、平和記念資料館やひめゆりに行きました。沖縄では、また広島と違う戦争の被害があり、今だに大きな問題を抱えていて本州に住む私達の知らない現実がありました。その時にやっていた展示で戦後から今、米軍兵から受けた犯罪の被害件数の多さに驚きました。こうした現状を、沖縄以外の県民も知らなければならない、ぜひピースあいちでもとりあげていただきたいです。(41歳女)

原爆の図の「ゆうれい」にはもちろん感銘を受けますが、どこかで何回か見たという思いはあります。高齢だから!それに対して広島市民の書き残してくれたそれぞれの「原爆の絵」には、瞬時にして日常が破壊された市民の生活が生々しく残っていて、一枚一枚、心をこめて見続けました。二回目、三回目と巡りなおして見つづけました。涙なしでは見られませんね。70年たって、こういう絵に相対することができました。書き残してくれた方々、ここに展示をしてくださった方々に感謝します。二階の「治安維持法」によって拷問をうけた人々の展示を読みつつ「共謀罪」もそうなっていくのかな~と戦慄をおぼえました。私が死ぬまでは、まだ大丈夫だろう~?とちらっと考える浅ましさ。(84歳女)

広島の平和公園。いまだ、一度はでかけようと思っています。今日は、昭和20年8月に涙しました。(85歳男)