◆名古屋城はなぜ空襲を受けたのかー考えてみませんか?◆
「名古屋城が炎上した5月―『名古屋大空襲』展」開催中   
運営委員 金子 力



 今年の「名古屋大空襲」展は、名古屋城が炎上した1945年5月14日の大空襲を取り上げています。1944年12月から1945年7月まで繰り返し米軍が行った名古屋空襲。その中で5月14日の空襲はどのようなねらいがあったのか、名古屋城は爆撃目標であったのか、そもそも名古屋城はこれまでずっと市民のシンボルであったのか、など様々な資料を通して考えてみたいと思います。

名古屋空襲

「名古屋城が炎上した5月―『名古屋大空襲』展」

 

 米軍による名古屋への空襲は、工場を爆弾で攻撃するものと市街地を焼夷弾で焼き払う攻撃の二種類がありました。名古屋で最初の空襲は1944年12月13日でした。攻撃目標となったのは、大幸町にあった三菱重工業名古屋発動機製作所でした。米軍のねらいは日本の軍用機を生産している航空機工場でした。東京の中島飛行機武蔵製作所とともに三菱発動機への攻撃はその後も執拗に行われました。
 一方、米軍は焼夷弾を主とする都市焼夷作戦の準備を着実に進めていました。1月3日名古屋市街、2月4日神戸市街、2月25日東京市街で「実験的」な焼夷弾攻撃を行った後、本格的な市街地空襲を開始します。3月10日東京大空襲、3月12日名古屋大空襲、3月14日大阪大空襲、3月17日神戸大空襲、3月19日再び名古屋大空襲と続きます。3月の5回の空襲は300機前後のB29が日本の主要4都市を連続して攻撃する「電撃作戦」でした。
 この時マリアナ(グアム・サイパン・テニアン)の焼夷弾は底をついたといいます。

名古屋空襲

米軍偵察機が撮影した事前・事後の大型空中写真

 3月末から5月11日にかけてB29に新たな任務が与えられます。沖縄上陸作戦支援のため九州各地の特攻基地(飛行場)への爆弾投下をのべ100回行っています。
 2か月間にマリアナの米軍基地には焼夷弾が補給され、B29も500機以上が配置されました。本格的な市街地大空襲が再開されます。最初に選ばれたのは名古屋市街地北部でした。すでに人口や住宅が密集する中心部は3月の空襲で焼失していたので、被害の出ていない北部に爆撃の照準を定めました。その中に名古屋城は………。
 続きは展示会場で御確認下さい。米軍偵察機が撮影した事前・事後の大型空中写真には住宅はもちろん街路樹もしっかり捉えられています。北練兵場にあった高射砲陣地、元志賀町2丁目の爆弾のクレーターなどが鮮明に写っています。2枚の写真を比べると、4月28日には天守閣が写っていたのが、6月9日には石垣だけになっている様子がわかります。この間、名古屋市街地北部の空襲は5月14日以外にありませんでした。また、5月14日の攻撃中の写真には燃えさかる市街地や黒煙に包まれる市街地の様子が写っています。

 そうした空襲の資料とともに、名古屋城がたどった明治・大正・昭和の歴史を公文書や地図でたどるパネルなど、これまでピースあいちになかった展示があります。戦後の復興の象徴として市民のシンボルとなった名古屋城についても考えるきっかけになればと思います。