アウシュヴィッツ・貨物列車の終着駅に立って◆チェコとポーランドの旅      
ボランティア 東野 裕子



 「アウシュヴィッツ強制収容所」に一度行ってみたい。写真でなく、自分の目で見てみたい。「働けば自由になれる」。そう書かれているという門をくぐり、その場所に立ってみたい。そんな思いで10月の中旬にチェコとポーランドに出かけた。

東野

チェコのプラハ
 チェコのプラハは美しい町だった。プラハ城、カレル橋など有名な場所は趣があり、近くからでも遠くからでも調和がとれていて、何度見ても飽きなかった。特に教会内のステンドグラスは、とてもきれいだった。戦火から逃れているプラハは、ヴルタヴァ川にかかるチェコ最古の石橋カレル橋を中心に中世の街を味わうことができた。
 カレル橋の上では、たくさんの生の演奏が聞こえてきて、すぐ近くにショパンやシューベルトの誕生したポーランドやオーストリアがあることを思い出させてくれた。自分独自の楽器をつくって演奏している人に、「ベーリイー ナイス」と声をかけてみたら、恥ずかしそうに微笑んでくれた。音楽の好きなプラハの人の顔が今思い出される。
 ガイドさんが「この通りは、1968年のプラハの春の時、みんなが集まったヴァーツラフ広場、通りです」と説明され、美しいだけでないプラハを強く感じた。そのガイドさんは、ソ連軍の戦車がここに来たこと、自分もここで民主化のために行動したことをさりげなく言われた。

ヴァヴェル城―聖マリア教会―レオナルド・ダ・ヴィンチ
 ポーランドのクラクフを流れるヴィスワ川沿いにそびえる丘にたつ王宮と大聖堂が、ヴァヴェル城である。それらの中には入らないで周りを見た。
 ただ一か所入った旧王宮小展示室に、何と世界に3枚しかないといわれるレオナルド・ダ・ヴィンチの作品―1490年制作の油絵「白てんを抱く貴婦人」―があったのである。チャルトリスキ美術館の改装に伴い一時旧王宮に移し、特別展示をしていたのだ。10人もいない人数で、すぐ間近に見ることができ、興奮した。薄暗い小展示室に一枚だけ飾られて、そこにやわらかい光があたり、浮き上がって見えた。これがたったの10ズロチ(日本円で300円ぐらい)で見られ、本当に感激だった。

東野
 

アウシュヴィッツ強制収容所
 アウシュヴィッツ強制収容所はナチスのホロコーストだという。ホロコーストはギリシャ語の「焼いたいけにえ」から来た語で、「絶滅」施設としてつくられたという。貨物列車で運ばれ、そこで降ろされ、隊列を組まされ、選別され、ガス室に向かわされた場所だという。
 この旅の目的地オンフィエンチムに向かう。オンフィエンチムとは、ドイツ語のアウシュヴィッツだ。訪ねた日は雨だった。雨の中、その地に立った。「働けば自由になれる。」ドイツ語で書かれている門がシンボルのような形で立っていた。哀しい気持ちになる線路があった。
 ここは今、国立アウシュヴィッツービルケナウ博物館という。よく写真で見る貨物列車の終着駅であるが、現地ではそこに人がいないだけに、想像することしかできない。
 「自分の祖母は、ここからの数少ない生存者です。」と自己紹介されたガイドさんだった。ガス室に行く時、全部脱ぐのはお風呂に入れてもらえると思った人もいたという。殺されるとは思わない人がたくさんいたというのは、驚きだった。
 たくさんの没収された物が、種類ごとに分けられ、そのガラスケースがいくつもあった。よく話題になる髪の毛の束は一つの部屋の隅から隅まであり、巨大なガラスケースの中のくし、靴、洗面道具、衣類等々には目を覆いたくなった。
 そして、人を殺すために使われたガスの缶がたくさんあった。1缶で何人もの人が亡くなったのだ。ガス室の隣に続く焼却炉も、あまりにもあっけなく、どう考えても人間の死の場所とは思えなかった。今なお目に焼きついている。
 処刑者の身代わりに殺されたコルベ神父の部屋に花輪が置かれていて、少し心が和らいだ。3段になっている収容所では、1番下の人はねずみに食べられたという話を聞きショックだった。外には、監視台、有刺鉄線、処刑場などの建物が静かに建っていた。

 アウシュヴィッツ収容所ではユダヤ人が殺されたという認識しかなかったが、最初のころは反体制派のポーランド人がたくさん殺されたと聞かされた。チェコとポーランドのどちらの国のガイドさんも、「共産圏であった時代は暗くて自由がなかった。」と言われた。そして、「自分の国が歴史の中で無くなった時があるのです。」と悲しい顔で言われた。その表情も心に深く残っている。
 世界史を知らないことを認識させられた旅であった。人類の歴史は戦争の歴史であり、平和を願ってたたかってきた人たちの歴史でもあることをほんの少し実感した旅であった。