沖縄訪問記―国と時間を越えたつながり―   
ボランティア 白井文子



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 2016年10月27日(木)から29日(土)にかけて、沖縄を訪問した。  27日朝。セントレアから那覇空港行きの飛行機に乗り込んだ。沖縄周辺には数々の米軍訓練空域が存在しているため、飛行機は、奄美大島を過ぎてしばらくすると高度を下げ、低空飛行に入る。雲の少ないよく晴れた日は、眼下に広がる海の美しさや島々を眺めることができる。この日も、島の周りをミルキーブルーが取り囲み、島から離れるにしたがって青の深みが増す様子がはっきりと見られた。空から魚も見えそうな透明感だ。気持ちはここから一気に「沖縄モード」に入る。

 

 今回が3度目になるこの旅の目的は大きく分けて二つ。ひとつは、5年に1度開催される「世界のウチナーンチュ大会」、そして、来年のピースあいちでの企画展に先駆けて、沖縄愛楽園交流会館を実際に見学することだ。どちらもはじめてのことで、行く前から期待と不安の入り混じった緊張感があった。

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 1990年からはじまり、今年で第六回となる「世界のウチナーンチュ大会」。キャッチフレーズは「ウチナーの 躍動・感動 世界へ響け!」。海外からはおよそ7千人が参加した(1)。
 約1万3千人が参加した開会式は沖縄セルラースタジアム那覇で午後5時から8時まで行われた。スタジアムの前には沖縄料理や南米・ハワイなど世界の料理の屋台が立ち並び、各国からやって来たウチナーンチュであふれていた。沖縄県立図書館のブースでは、職員さんと相談しながら、ルーツ探しができるようになっていた。
 開会式は、1000人にも及ぶ三線の一斉演奏から始まり、しまくとぅば、日本語、英語、スペイン語、そしてポルトガル語、と多言語で進行された。2世、3世と世代が移り替わってもなお沖縄を故郷の一つと感じ、自分の先祖のルーツを大事にしている人々からの愛と情熱を感じた。
 離れた土地で言語も通じなくても、「オキナワ」という言葉自体、そして、三線、エイサー、空手などの文化によって、瞬く間に一つになれる、絆の力強さに触れた時間だった。

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 28日は朝から沖縄本島を北上し、金武湾、宜野座村を抜け、名護を通って沖縄愛楽園交流会館のある屋我地島に入った。愛楽園は、かつてハンセン病患者が収容され、隔離された療養所だ。

 サトウキビ畑が一面に広がり、コンビニもない、のどかな島をさらに進んでいくと、急に道が一幅狭くなり、等間隔に同じ建物がいくつも並んだ愛楽園内に入る。人の気配はしながらもひっそりとセミの鳴き声だけが響いていた。
 交流会館では学芸員さんから一つ一つ丁寧な説明をしていただいた。入ってすぐ、米軍によって建てられた“OFF LIMITS”の看板、そして、療養所を取り囲んでいた壁に残った銃弾の跡は、「療養所」とされながら、沖縄を占領した米軍だけでなく、日本社会からも受け続けた非人道的扱いを象徴しており、無言ながらも、愛楽園の歩んできた歴史が、冷ややかな鉛のように、心の中に下ろされた感覚を受けた。

 

 今回の沖縄訪問で、私は改めて「過去は死なない(2)」ことを実感した。様々な物事が歴史を持ち、そして現在、未来と繋がっているのだ。過去に世界各地に移り住んだウチナーンチュが子孫に伝えた愛郷心が、今もおよそ40万人の世界のウチナーンチュネットワークを作っている。そして、残念ながら、ハンセン病に対する差別や偏見は、形を変えて現在にも生き続けているのである。

 


 (1) 『沖縄タイムス プラス』2016年11月1日 
   http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/69147 (最終閲覧:11月23日)
 (2) テッサ・モーリス―スズキ『過去は死なない―メディア・記憶・歴史』岩波書店、2014年。