米軍占領下の沖縄の教科書を調べてみると…   
ボランティア 桐山 五郎



絵はがき

ボランティア学習会で話をする桐山さん

 

 今年のピースあいち企画展「沖縄展」に加えていただき、お手伝いをしました。参加した動機の一つは、「なぜ沖縄と本土とでは、これほど認識の違いが開いてしまったのか」でした。そこで、「違いが生まれた要因の一つには、沖縄復帰以前から本土と沖縄では、教える教育内容に違いがあったからではないか?」と疑い、それぞれの教科書や地図帳を調べてみました。

 

 沖縄県教育委員会に問い合わせると、意外な回答…沖縄では復帰以前から、日本の学習指導要領と本土の教科書を使って、授業をしていましたと…。米軍占領下で?そんなことがあるのかと耳を疑いました。次は文部科学省に、なぜそのような事態になったのか問い合わせました。
 文科省は、そのような質問は、国立教育研究所で回答しますとの返事。そこで、研究所に聞くと、
①沖縄は、占領下で教科書作りをしたが、断念(1948・1)
②マッカサーの命令で本土から130万部の教科書を沖縄へ届けさせた(48・6)
③この経緯とその後の沖縄の教育行政と教科書は『沖縄の戦後教育史』に詳しい
という3点の回答を得ました。
 次はその『教育史』をみてみたいと探しましたが、本土には数冊しかない。神戸大学所蔵・国立国会図書館ぐらいです。鶴舞図書館に問い合わせると、沖縄県図書館を紹介していただきました。そして、希望なら取り寄せ、貸し出しますとの返事です。「お願いします」と即答すると、10日程で手許に届きました。国民の知識財産の共有に公立図書館が貢献していることを実感しました。

 

 『教育史』を開くと、難解な専門用語を使って記述されていますが、生々しい当時の息遣いが分かります。
 1946年11月7日、沖縄文教部長名発表に続く教育の諸方針には、「教科書の編集」「米軍は教科書編集に対し、超国家主義的教材、軍国主義的教材、日本的教材を使用してはならないと、厳しく指示した。」「初等学校教科書編集方針」「新教材は…大部分を沖縄関係に取材し沖縄の道(新沖縄建設の精神)を体得…意気に燃えしめるように努めた。」など、具体的に独自の教材・教科書づくりを始めた流れが分かります。英語教育の充実、自治意識の高揚、沖縄の歴史を学ぶなどが取り上げられていました。
 しかし、それは断念されました。戦争による知識人・教師の損失、書籍の消失、教材教具の不足などで一定の科学的な内容を維持・編集することはできなかったからです。しかし、本土で学ばれた『あたらしい憲法のはなし』が、沖縄にも届いていました。この話は、沖縄に問い合わせしている中で、沖縄在住の人から直接聞きました。米軍は本土と沖縄を遮断しようとしていたから、米軍は許可するはずがない。しかし、子どもたちの中には持っていた子がいたという。当時ガリ刷りの教科書しかなかった沖縄では、めずらしい教科書だったのです。どのように運ばれたのでしょう。
 企画展には、直接生かすことはできませんでしたが、沖縄の一面を知りました。