森田拳次さん講演会「私とマンガ家たちの八月十五日」に参加して  
ピースあいち学芸員 岡村 裕成



絵はがき

 7月31日、特別企画「私の八月十五日展」の関連イベントとして、森田拳次さんによる講演会「私とマンガ家たちの八月十五日」が開催されました。森田拳次さんは、「丸出だめ夫」などのギャグ漫画の漫画家であり、「日本漫画事務局八月十五日の会」の代表理事をされています。
 「いろんなことがありましたが、みんなギャグ漫画家なんです。何でも笑いにしてしまおうと…いつも頭を笑いモードにしています」。だめ夫くんそっくり(?)の森田さんのお話は、以下のようでした。

<6歳まで暮らした満州での生活と引き揚げ>
 昭和14(1939)年東京で生まれ、生後3か月で両親に連れられ、当時の満州国奉天(現、中国瀋陽市)に渡り、そこで昭和20年8月15日を迎えました。混乱の中逃げまどい、1年後引き揚げ船で日本に帰国しました。
 道端で店を広げる物売り(寒い時期は、タンフールー、夏にはまくわうり)、憧れの最高速度130キロの「あじあ号」、地平線に沈む真っ赤な太陽…中国人の友達も一緒に遊びました。昭和20年8月15日、それまでの平穏な暮らしが一変しました。その日、日本人街は不気味なほど静まり返っていました。
 そして数時間後、日本人を糾弾する暴動が起こりました。日本兵が殺される場面も目撃しました。地獄の始まりでした。逃げまどう日本人でごった返す満州の駅で「決して母さんの手を放すんじゃない。もし放したら二度と会えなくなってしまうからね」という恐ろしいほど真剣な母の表情に6歳だった私にも異常な緊張感が伝わりました。
 何日も屋根のない列車に乗り引き揚げ船が出る葫蘆島へ向かいました。途中で襲われ、病気で倒れたりして、命を落とした人は数知れません。

<引き揚げ仲間と作った「中国引き揚げ漫画家の会」「八月十五日の会」などの活動>
 1995年、戦後50年に「中国引き揚げ漫画家の会」を結成しました。漫画家には中国引き揚げ者が多いんですよ。赤塚不二夫は僕と同じ奉天に住んでいました。その赤塚さんとちばてつやは、同じ小学校に通っていたんです。親たちが亡くなる年齢になってきて、中国の住所とか帰国のルートもあいまいになってきて、自分たちの体験を漫画で残せないかということになりました。そんなことで、上田トシコ、高井研一郎、古谷三敏、山内ジョージ、横山孝雄、北見けんいち、石子順の10人で、「ボクの満州―漫画家たちの敗戦体験」という本を出版しました。
 この本を読んでくださった方から「表紙になっている、ちばてつやさんの絵が満州で死んだ息子にそっくり」というお話があり、「満州で死んだ子どもたちのためにお地蔵様を建てよう」ということになり、いろいろな応援で、浅草寺に「まんしゅう母子像」が建てられました。1999年には、中国に残された子どもたちと養父母のために、柳条湖跡地にある「九・一八記念館(満州事変記念館)」に「中国養父母に感謝の碑」を建てました。
 その後、2001年には「少年たちの記憶」を出版しました。引揚者だけでなく他の漫画家たちにも呼びかけ、「昭和20年8月15日」をどう過ごしていたのか、一枚の漫画にして展覧会も開きました。それが「わたしの八月十五日の会」となり、「私の八月十五日」の画集も出ました。
 2009年には「南京大虐殺記念館」も展覧会を開きました。決死の覚悟で開いたのですが、初日だけで2万人。3カ月の予定が11カ月に延長され何と500万人の方が見に来てくれました。東日本大震災の支援や熊本地震の支援などもやっています。
 いま、「子ども達の感覚のマヒ」が怖いですね。戦争や平和について伝わりにくい一方で、ゲームや漫画などで戦争や殺しなどに慣れてしまい、戦争をゲーム感覚で始めてしまうのではないかと不安に思うことがあります。

◆参加者のアンケートから◆

仕事が(ピースあいちと同じ)日曜・月曜休みのため、開館以来やっと見学できました。講演会をメールマガジンで知って、丸出だめ夫を小学校の頃楽しみにしていたことを思い出しました。八月十五日の会のことは知りませんでしたので、予定を変更して今日来館しました。(56歳男)

森田先生の講演良かったです。また、まんが家さんのイベントをお願いします。今日マチ子さんの戦争マンガの展示とかお願いします。(55歳男)

森田拳次さんの話を聞きにきました。漫画家が満州など中国にいた人たちだったことを知りませんでした。600万人の人たちが中国へ行っていたのですからそんなこともあったのでしょう。上田トシコさんの漫画は「婦人の友」に連載されていたので以前ずっと読んでいました。それぞれ苦労の中ですばらしい創作的なものを創り出しているのは、通ってこられた苦労の結果だと思います。ちばてつやなど知っている漫画家ばかりでした。コーディネーターの方がよかったです。(74歳女)