◆常設展示から◆会場のリニューアルと「玉音放送」
ボランティア 林  收

                   



 今年4月、2階常設展の展示内容に手を加え、リニューアルが施されました。その中に画像と実物資料に説明文を添えた従来の展示に加え、新しい試みとして、聴感覚による体験コーナーが取り入れられました。
 そのひとつに1945(昭和20)年8月15日に放送された「終戦の詔書」いわゆる玉音放送を再生しているものがあります。その全文は当日午後配達された朝刊紙上に掲載されました。(下図)

絵はがき

 現在、「ピースあいち」では「私の八月十五日展」と題して特別展を開催中です。私は当時国民学校(現在の小学校)4年生で、縁故疎開先の農村の庭先で「玉音放送」を聞きましたが、内容は全く理解できず、土壇場では「神風が吹く」ことで救われると信じていた身としては、大人たちがうろたえる理由も分からないまま過ごしたように記憶しております。ただ、翌日あたりから各農家でアメリカ兵の侵攻に備え、女こどもを山林方面へ避難させるための主食としてコウセン(小麦を炒って粉に挽いたもの)作りが始まったのを見て、不安が胸の内に漂い始めました。当時疎開先の母の実家では母の弟4人がすべて兵隊として戦地に徴用されており、この先どうなるのかという不安は、日ごとに増してきました。 
 この「玉音放送」とは、1945(昭和20)年8月9日から10日未明にかけての御前会議における「聖断」を受けて作文された詔書の原案に8月14日の御前会議における2度目の「聖断」を経て成文化された「終戦の詔書」を、天皇の発案により自ら読み上げた朗読録音を8月15日正午、電波に乗せ国民に知らされたことを指しています。
 ただ、この「終戦の詔書」作成の過程では、度重なる修正がなされ、最後に至っても清書された文章に「テ頻(シキリ)ニ無辜(ムコ)ヲ殺傷シ」の部分が挿入された跡が残っています。書き直す時間的余裕がなく、加筆跡が残るまま異例の正本となったものと思われます。(下に示す詔書の部分図 右から6行目)

絵はがき

 「終戦の詔書」は、文字数にして800字、読み上げ時間にして5分弱ですが、文中「耐へ難キヲ耐ヘ忍ビ難キヲ忍ビ」の部分だけが、戦後毎年八月十五日に「玉音放送」として、二重橋を望む皇居前広場で膝まずく臣民の映像と合わせて流されています。つまり、この部分だけが他の問題部分から切り離され、独り歩きするよう意図されているかのようです。
 7月26日以降、米・英・支三国により発表された日本に降伏を勧める宣言(ポツダム宣言)を受諾するか否かについて議論を繰り返し、「国体の維持」は確保できるとの判断により、天皇の「聖断」を得て迫水久常書記官長らにより「終戦の詔書」原案の作成が進められ、8月14日深夜に成文を見たとされています。内容はあたかも臣民の将来を慮って終戦の決断がなされたように言われていますが、「敗北」「降伏」の文言もなく、実際は「国体の維持」の宣言そのもので、詫びているのは「皇祖皇宗の神霊」に対してのみ、「臣民」に対しては「朕ガ意ヲ體セヨ」と命じて閉じています。
 このように、問題の「終戦の詔書」に関して学者間で進められてきた研究の成果によると「詔書」の目的とするところと、国民に対する配慮との間には大きな隔たりがあったことに気付かされます。