◆戦争の記憶◆学徒動員先・自宅の空襲体験   H・Sさん(1929年(昭和4)生まれ・86歳・名古屋市名東区在住)

                    

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1944年12月18日 三菱航空機(港区)への空襲(米軍撮影)
画面中の白い丸は目標を外れて名古屋港の水面に爆弾が落ちたもの
工場内では火災が発生して煙が立ちのぼっている。
三菱航空機は1945年1月14日にも空襲を受けた。

 東海中学4年生の時、1944年(昭和19)5月~1945年(昭和20)3月まで三菱名古屋航空機製作所で学徒動員として働いていた。零戦(零式艦上戦闘機の通称)の尾翼、一式陸上攻撃機の弾倉扉を作っていた。作業内容はリベットうちで、10人ぐらいで作業をしていた。住まいは中区にあった。朝7時~夕方5時まで働いていたが給料は払われていなかった。

  

 1944年(昭和19)12月18日午後2時頃、工場に米軍機60機による空襲があった。警報が鳴り(陸軍が)高射砲を撃ったが、自分たちは10人ぐらいが入れる防空壕に逃げた。空襲による死者(米軍による三菱航空機製作所など・名古屋市〈港・瑞穂・南・西〉空襲で334人が死亡)が出たが、東海中学校生徒の死者は出なかった。工場の屋根が無くなり生産能力も下がった。

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ピースあいち常設展パネル「三菱重工業への爆撃」より
下の写真が「壊滅した三菱重工業名古屋航空機製作所大江工場(名古屋市港区、1944.12.18)」
上の写真はナゴヤドームの近く(名古屋市東区、1945.4.7)

 

 「いずれ死ぬ」という考えであった。早く死ぬのは予科練、医専、陸軍士官学校、海軍兵学校等であったので理系を希望し、名古屋工業専門学校(名工専=現・名工大)に入学した。学徒動員で武豊の火薬工場で働いていた。

 

 父親は召集で大阪にある中部軍管区司令部におり、面会に行った日の3月16日の大阪空襲に遭遇した。すぐに名古屋に帰ったが3日後、名古屋市の自宅は1945年(昭和20)3月19日の空襲(午前2時頃から午前4時50分の米軍による空襲で名古屋市民826人が死亡)で手押しポンプで消火にあたったが焼けた。兄妹と覚王山の親戚の家に逃げた。

 

 「ピースあいち」に来館したのは、漫画家おざわゆきさんの『あとかたの街』を見たことがきっかけであった。シリーズ第3巻のP142の空襲はそのとおりである。戦争はないほうがいい。