◆戦争の記憶◆夏の戦争体験の語りから 8月1日(土)~15日(土)                     



語り手

恒例の「夏の戦争体験の語り」。先の戦争では、20歳前後の多くの若者が戦場に送られました。その方たちは今や90歳前後に達し、ご自分の体験を語る限界に近づいています。そこで、今年はテーマを「戦場体験」を絞って取り組みました。10人の語り手の方のお話を、その日のボランティアがまとめました。

  

8月1日(土) 上野 三郎さん(101歳) 扶桑丸乗船沈没とマニラ戦線従軍

語り手

 30歳で2度目の応召。高雄から扶桑丸に乗船し、フィリピン到着間近のバシー海峡で待ち受けていた米潜水艦による雷撃で撃沈。甲板にいたので海面に横転して落下してきた救命ボートにしがみつき、数時間後に味方の駆潜艇に救助された。貴重な武器や物資を大量に喪失し、多くの戦友が波間に沈んでは浮かんでこなかった。
 マニラからサンボアンガに駐留していたら、米軍の侵攻と艦砲射撃にあい遁走。後日、夜戦で米軍陣地に突入する直前に部隊解散となった。以降、飢えと病とのたたかいになり、「子どものために日本に帰りたい」と言っていた兵隊ほど死んでいった。繰り返される米軍の投降勧告ビラに投降を決意。必ず殺されると覚悟したが、捕虜収容所に隔離されて守られ食事も与えられた。

8月4日(火) 江口 勉さん(94歳) 第三師団中国派遣軍、抑留

語り手

 昭和17年5月、1ヶ月の教育召集(白紙)で上海に入った。第3師団中国派遣軍の事務方に配属され、応山で作戦教育を受け、19年上海から南方3千キロの行軍に従った。第3師団の事情は全部把握していた。師団は2万人前後からなり、苦労も多かった。行軍中に地雷の爆発で怪我もした。食料は自給自足(?)で、これも辛かった。米は玄米、野菜は畑から取ってくる。半年後、また上海へ帰ってきた。夜襲で撃たれもしたが、命だけは助かった。20年8月、終戦と同時に現地で武装解除、米軍の捕虜となり、翌年3月帰国した。若い人には、「二度と戦争に巻き込まれないようにしてほしい」と思う。

8月5日(水) 加藤英男さん(94歳) 元船舶工兵32連隊小隊長、捕虜(フィリピン・ルソン島)

語り手

 大正9年(1920) 北海道生まれ、昭和17年(1942)現京都工芸繊維大学卒業、同年10月舞鶴要塞重砲兵連隊入隊、19年 船舶工兵海上輸送大隊所属小隊長。12月ルソン島北フェルナンドに上陸、20年リンガエン湾から北部ルソンへ転進482km。ガタランで落後し野戦病院に入る。9月に投降。国力の差を甘く見て戦争を仕掛けたことは無謀の一語に尽きる。戦力の不足、情報不足(対米研究の不足)、軍内の連携の不足・軋轢・派閥の対立を指摘。

8月6日(木) 河村 廣康さん(91歳) シベリア抑留、引き揚げ

語り手

 8月15日の敗戦時、奉天(新京)の戦車隊にいた。武装解除され、シベリアに連れていかれた。シベリアの開発と戦争で荒廃した街の修復。11月はすでに真冬で、胸まで雪に埋まりながら木を切り倒すのは困難。ノルマを達成できないと翌日の食事が減らされた。飢えと寒さ(マイナス40度)で、多くの人が亡くなっていった。死者に対する尊厳も弔う気持ちも儀式もなく、雑木林の穴に素裸で埋められた。放置されたということ。今もって遺骨収集は進んでいない。幸いにも私は栄養失調寸前だったため、19カ月で日本に帰ることができた。

8月8日(土) 諸井 進さん(89歳) 駆逐艦「時雨」でレイテ沖海戦参戦、南シナ海で撃沈

語り手

 17才で入隊、相ノ浦海兵団で3ヶ月訓練し、中国青島の守備隊に4ヶ月ほどいた。帰ってすぐ駆逐艦「時雨」に乗船。香港からシンガポール向けて出たら潜水艦にやられた。海に飛び込んで、7人が5、6mの材木につかまって5時間くらいで助けられた。シンガポールで約10日、重油を飲んでいるので便が真っ黒。「今後こういう体験がないことを祈って、今までの思い出を話したのです。」と話を結ばれました。

8月11日(火)田辺登志夫さん(87歳) 海軍志願兵、厳しい軍隊生活

語り手

 昭和19年6月、15歳10ヶ月という若さで志願兵として入隊しました。旧制中学4年生の時の事で、当時としては普通のことでした。子どもの頃から、お国のために命を捨てるという教育を受けてきているので、軍隊にも憧れのような気持ちをもって入りました。しかし、現実は想像を絶する過酷なものでした。そこでは、人間的な感情を捨てないとやっていけず、思考停止状態にしてやっと自分を保てました。兵隊は、人間としてではなく消耗品として扱われるのです。今、憲法を学び直しています。戦前の過ちを二度と繰り返さないため、歴史の事実を知り、平和な社会を築くためにどんな道があるのか、深く考えねばなりません。

8月12日(水)中野 巌さん(87歳) 海軍航空隊整備術訓練生、厳しい軍隊生活

語り手

 食糧難で幼児が空のおひつを抱かえ、しゃもじについているご飯を舐めて泣いている哀れなポスターを見て「祖国を守りたい、故郷を守りたい」という思いに駆られ、海軍に志願しました。
 昭和19年9月、16歳で神奈川県の第二相模野海軍練習航空隊に入隊しましたが、待ち受けていたのは厳しい訓練と罰直でした。「気合が入ってない」と毎日のようにビンタと棒で尻をたたかれ、死ぬ思いでした。こうしたスパルタ教育を通して忍耐や根性を叩き込まれ、死ぬことを恐れない軍人に鍛え上げられていったのです。

8月13日(木)鈴木 忠男さん(89歳) 陸軍無線通信候補生の記録

語り手

 戦後背負ってきた軍事の秘匿義務は8年前の同窓会誌で解禁され、後世への伝承を決意し、戦史の研究を始めました。
 終戦の前年19歳で「陸軍参謀本部通信隊」に入隊 、「北多摩陸軍通信所」(東久留米市)に属し、モールス符号による極秘文書の解読や送受信を扱う過酷な業務が続きました。
 広島・長崎の原爆投下前B29の基地からの発進情報、ポツダム宣言に係わる連合国側の交信録も日本側が傍受していました。 一方、日本の敗戦宣言(詔勅)は米国に感知され、核兵器を誇示する対ソ戦略に活用される等々、正当防衛を騙る国際条約の無視が横行しました。

8月14日(金) 三友 隆司さん (戦艦大和でレイテ沖海戦参戦の原田久史さん、ニューギニア戦線の伊藤重一さんの体験を語り継ぐ)

語り手

 本日は原田久史氏、伊藤重一さんによる語りの予定でしたが、お二人とも体がめっきり弱くなられ、残念ながら名古屋まで出てこられません。お二人が出された自分史を編集した三友隆司氏がお二人に代わりお話しされました。三友氏は、奥三河で「奥三河の文集 こたつばなし」の編集をされています。お二人や会員の全ての方の「戦争をしてはならない!」との思いを伝えるために、遠方より山を下りてきてくださいました。

原田 久史さん(96歳)の体験 戦艦大和で、レイテ沖海戦参戦

 戦艦大和は全長263m7万2千トン、初めて見たときはまるで島だ、美しく巨大な戦艦と思った。気象班、戦闘指揮所で見張り員の補助をしていた。レイテ沖海戦後に海軍気象学校へ出向、戦艦を下りる。そのため昭和20年4月の沖縄戦には参加せず九死に一生を得る。大和は時速50キロ、対する戦闘機は時速500キロ以上。まるで幼稚園児がスズメ蜂に襲われるようなもの、どうしようもない。戦闘中もっとも恐ろしいのは、弾丸ではなく弾丸が破裂した破片だった。それがどこから来るかわからない。それがほとんどの人間を殺傷した。隣にいた戦友が寄りかかってきたのでどうしたのかと思ったら、破片が首に当たって血だらけ、即死だった。戦場は運、すべて偶然である。死んだ男が私でも不思議ではないし、私が生きているのも偶然である。玉とか破片で死ぬのはまだ良い。一番可哀想なのは内部で働いていた人達。彼らは生きたまま水の中に沈んでいった。戦争は絶対やってはならない。戦争に理屈はない。戦争は人間の命を軽くする。

伊藤 重一さん(97歳)の体験 ニューギニア戦線に参加

 ニューギニア戦線に参加する。そこは「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と言われた戦場。補給がなく16万人中15万人が戦死、ほとんどが飢えと病気。4000mの山で雪と氷の中を越えて死んでいく人々。海岸で日本の方角を向き正座姿でミイラになっている人。自決しようにも手りゅう弾が錆びてできない人。栄養失調で腹がパンパンになっている人。そんな中、4年もさまよって帰ってきた。ヤシのデンプン、トカゲ、ヘビ、ワニを食べ生きながらえた。飢えから原住民の肉や日本兵の肉も食べる事件も起きた。日本人の文明とは? ニューギニアの原住民からは文明が何かを考えさせられた。(ニューギニアでは太陽が見ているから殺し、盗み、姦淫はしてはならないとの教えがある。)

8月15日(土) 竹内 豊彦さん(93歳) 海軍入隊、ラバウルでの戦闘

語り手

 大正11年生まれ、海軍の将校として昭和18年8月1日に第八施設部に命じられた後ラバウルにて戦いました。そこでは、土木技師として任務につき200名程の部隊長でした。奇襲を受け、孤立無援となったラバウルでは口に入るものは何でも食べるという生活をしました。敗戦と知り、怒りではなくただ負けたんだなぁと、一種の虚無を感じました。
 竹内さんは、繰り返し「平和が1番大切であり、いつまでも平和な日本であってほしい」と話されていました。