敗戦を知らなかった日本軍の将兵たち
     ボランティア  林  收



 毎年めぐってくる8月15日は、大日本帝国が連合国軍に敗戦した「記憶すべき日」とされています。しかし、この日付には異論も出されています。終戦の詔書に残る8月14日とか、降伏文書に調印した9月2日が正しく敗戦の日である、などというものです。いずれにしても、この敗戦記念日は、その後「終戦記念日」と呼び換えられ、その名称に法的根拠も与えられました。(注)

絵はがき

 島で守備隊として敵の攻撃に応戦中、本隊と離れ離れになって孤立した日本軍の将兵たちが、敗戦を知らなかった期間は数ヶ月のこともあれば、数年、ごく稀には数十年に及ぶといわれるものさえあります。有名な例は、グアム島のジャングルに28年間潜んでいたのち帰国した愛知県出身の横井庄一さんでした。そのほか、戦後30年をフィリピン・ルバング島の山中で過ごし生還した小野田寛郎さんやインドネシア・モロタイ島で発見された中村輝夫さんの例がありますが、いずれも発見されるまでの期間中、全く敗戦を知らなかったとは考えにくく、承知していても何かの理由で投降できなかったものと見られます。

 

 横井庄一さんが1972年に発見された直後、連行されたグアム警察署の調書によれば、20年前に戦争の終結を知ったことになっています。
 自著『明日への道』においては、「私は日本の敗戦を知らず、(中略)十年待っておれば、必ず日本軍は力を盛りかえしてこのグアム島へも攻め寄せてくるとかたく信じておりました。」と書いてみたり、昭和38年ごろの話として「信じたくはないが、うすうす日本が負けたとは思っていました。」と書いているところもあります。
 最後まで敗戦を知らなかったというのは、投降の機会を逃したことに対する悔悟の念から出たものと推察するのが妥当な線であろうと考えます。

絵はがき

 小野田寛郎さんは陸軍中野学校で諜報活動の指導を受けた特殊将校であり、敗戦2ヵ月後に手にした投降勧告のビラを敵の謀略と決めつけ、敗戦を否定して臨戦状態を維持したまま部下3名と共にジャングルに潜伏していたものといわれています。
 これは、発見された直後に述べた「直属上官の命令があれば山を下りられる」という言葉にみられるように、軍命下の姿勢を貫き、潜伏中の殺戮行為等も戦時下ゆえのものとして正当化する小野田少尉としての建前であって、諜報の専門職が敗戦を全く知らなかったことはないと思われます。

 

 中村輝夫さんは台湾の高砂族出身の日本兵士(台湾名:李光輝、民族名:スニヨン)であり、「日本兵」最後の帰還者とされていますが、前の二人に比べ関心が薄かったのは、中村さんが発見された1974年12月の翌月早々台湾へ帰ったためと思われます。
 その後深く詮索された形跡は見当たりませんが、長期遊撃戦に突入するという司令官の命令を忠実に守っていたとはいえ、モロタイ島の山中に小屋を建てたり、僅かながら土地を開墾して作付けをしていたことは、うすうすでも敗戦を気づいていた証しと考えられます。

 

 横井さんは、帰国後、いち早く日本社会へ順応し、「耐乏生活評論家」などとして日本全国を講演して回ったり、陶芸の道に励んで個展を開いたりして、25年間を過ごした名古屋で、平成9年(1997年)9月22日に病死されました。
 一方、小野田さんは高度経済成長社会に馴染めず、帰国半年後ブラジルへ移住して牧場経営に成功し、日本で青少年向けに「小野田自然塾」を開講したり、保守系の活動家として、「日本を守る国民会議」、「日本会議」の代表委員等も務め、2014年1月16日、肺炎のため東京都中央区の病院で亡くなりました。
 また、中村さんの台湾での生活は、日本政府からの見舞金、台湾政府からの援助金などで困窮とは縁のないものであったといわれていますが、過度の喫煙によるものか、1979年1月に台北の台湾大学付属病院で末期の肺癌と診断され同年の6月15日に亡くなっています。
 敗戦を知らなかったか知っていたかの真相はともかく、三人の将兵たちは、共に戦前・戦中・戦後にわたる激動の時代を生き抜いて、今はそれぞれ由縁の地で永の眠りについておられます。(合掌)

 横井さんが生前に病床で、奥さんの美保子さんに漏らした「自分の死後、もしも横井庄一記念館ができたら、もって瞑すべし」という希望が美保子さんの努力により実現したのは、横井さんの死後10年めの平成18年(2006年)6月です。「ピースあいち」の開設に先立つほぼ1年前のことでした。
 横井家の自宅を改装して作られた「横井庄一記念館」の開館に際して、美保子さんは「ほんとうにささやかな記念館であるが、どんなに小さな灯でも、平和の灯はともし続けなければならないと、心に深く誓っている。」と述べられています。また「『平和記念館』のつもりが『戦争記念館』と呼ばれていることを知りました。人と人が殺し合う戦争が二度と起こりませんよう、ただひたすら祈っております。」というのも館長の美保子さんの言葉です。

      
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横井庄一記念館(門から建物を望む)  

 横井庄一記念館を紹介しておきます。
所在地 : 名古屋市中川区冨田町千音寺稲屋4175
電話番号:052-431-3600
館長 : 横井美保子
開館日 : 毎週日曜日のみ開館
開館時間 : 午前10時―午後4時30分
入館料 : 無料
展示内容:横井さんが竹藪に掘って住んでいた穴を、紙や竹などで再現した模型。帰国後に復元した、パゴ(ハイビスカス)の木の繊維を織る機織り機や、魚を捕るかご、ココナッツの実で作った椀など。

 横井庄一記念館が名古屋の平和資料館の一つとして、後世まで存続されることを願って止みません。
 この文の題名及び文中に「日本軍」を使い、「旧日本軍」としなかったのは、「日本軍」復活を目論む昨今の動きを危惧し、「日本軍」という用語は220万人以上の軍人が犠牲になったあの大戦を最後にしたいという筆者の想いからです。

(注) 昭和38年(1963年)5月14日に第二次池田勇人内閣で閣議決定された「全国戦没者追悼式実施要領」で8月15日が「終戦記念日」となった。
「終戦記念日」の正式名称を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることは 昭和57年(1982年)4月13日に鈴木善幸内閣が閣議決定した。