仲 直敏さんを偲んで     ボランティア 並木 和子



 今年の1月2日に 仲さんが亡くなられた。
 数少なくなっている戦中派の仲間がまたひとり消えた。そして何よりも、当時はお互いに知らなくても、子供時代を目と鼻の先で過ごした戦友のような友人の死はとても残念でさびしい。

仲さん

在りし日の仲さん(ピースあいち1階)

  「ピースあいち」開館時以来、長崎原爆被爆の体験者としての生の声を語って、無惨な戦いの記憶を後世に伝えてこられた仲さんの役割はとても大きかったと思う。仲さんの作られた独特の力強いタッチで描かれた11枚の紙芝居「戦争をしない國に!世界から核をなくそう~長崎被爆者は訴える」を手にし、「ピースあいち」に参観にこられた方々を前に、静かな口調だが、説得力のある話し方で語りかけていた仲さんの様子が思い出される。
 またある時、紙芝居では無理な大人数の会場での講演依頼を受け、急いで我が家のパソコンで大会場用に紙芝居をパワーポイントとしてメモリーチップに入れるお手伝いをした。今もパソコンを開くとデスクトップに”仲さん紙芝居”の字が出てきて懐かしい。

 仲さんとのご縁は、2004年3月5日の朝日新聞の「原爆死の遺体 校庭で焼いた  仲 直敏」 という投稿を読んだ時に始まった。投稿の内容は、戦争は嫌だ!という力強いものだったが、私の目を引きつけたのは内容ではなく、そこにあった懐かしい「伊良林小学校」の文字だった。新聞社に連絡を取り、仲さんと電話で話してみてさらに驚いたのは、中川町の八幡様の右と左という本当にごく近くに住んでおられた事だった。
 長崎には小学校の4年から中学(当時は高等女学校)の3年まで暮らしたが、この町は平坦な所が少なく町の中に丘陵が入り組んでいて、古い市街地も新しく発展した町もともに山や丘に囲まれた谷間を中心に市街地が形成されていて、坂が多いが、山も海も川も近く子供が遊び回るのに楽しい所だった記憶がある。
 当時、原爆の爆心地となった浦上や長崎駅の方面から諏訪神社前で大きく市電が右折した辺りから終点の蛍茶屋までの地域には、仲さんの通っていた伊良林小学校と私が通っていた長崎師範附属小学校の2校だけがあった。さっそく、名古屋在住でやはり近所に住んでいた附属の女友達を誘い仲さんと三人で食事をした。
 まず、仲さんが小学校の時は「学校の行き帰りに附属の子(男の子だけ)とよく喧嘩をしたよ」と65年ほど前のローカルな話で盛り上がった。私も友人も戦争中に長崎を離れているので原爆体験はないが、学徒動員先の三菱重工兵器工場で仲さんの友人が原爆に被爆し動けなくなっている所に、附属の我々のクラスメートが折良く通りかかり、救護所に運んでくれたので命拾いしたなど、話は尽きなかった。

 

 2007年に「ピースあいち」の開館とボランティアの募集を知り、仲さんと私は即座に応募し、その後は毎月1回のお当番の日に会うのを楽しみに過ごしてきた。
 まだまだ、八幡様の森を駆け回った頃の懐かしい話がし足りなかった。
 心からご冥福をお祈り致します。
(私は1943年に東京に移ったので原爆被爆体験はありません。)