「えー! 英語?」  昭和20年 女学生の頃の思い出          ピースあいち会員  村田 優子(81才)



 第二次大戦(当時は大東亜戦争と言っていました)中の体験は、多くの人達と同じく、空襲により住んでいた家を焼かれたり、食糧難でひもじい思いをしたりといろいろあります。戦時下の事で、家族が無事でやり過ごせた事はありがたいとさえ思いました。その中で、いまだに忘れられないちょっと変わった体験の事を書いてみようと思います。

 昭和20年4月、私は名古屋市立第一高等女学校に入学していましたが、勉強はほとんどできませんでした。上級生の教室の机の上には旋盤の工具が並べられていました。多分、鉄砲の弾丸をつくっていたのだと思います。私たち一年生は校庭を耕してサツマイモの苗を植えたり、空襲により負傷した人々の応急手当の仕方を実習したりの毎日でした。
 4月末になると空襲はいよいよ激しくなり、食糧の配給もままならない状態になりました。祖母や小さい兄弟も多い我が家は、何とか手段のあるうちにと、母の実家の岐阜県海津郡石津村(現在は海津市)に疎開しました。住んでいた千種区の家は、名古屋城が炎上した5月14日の空襲で燃えたのですが、その寸前に疎開できたのは不幸中の幸いでした。

 疎開してから海津高等女学校に転校しました。学校は疎開した家から一里(約4㎞)あり、揖斐川の堤防を自転車で走って通ったり、養老線の電車で駒野まで乗り、それからしばらく歩いてから揖斐川を渡し船で渡ったりといろいろ体験しました。
 その中で一番印象に残っているのは、なんと田舎の女学校で戦争中にもかかわらず英語の試験があったことです。もちろん授業もあったはずですが、なぜか記憶には残っていません。学期末試験に英文和訳が出ました。名古屋の女学校では敵性語とかいって一切英語の授業はなく、ABCもわからないのに、いきなり英文が書かれた答案用紙に手も足も出ません。悔しいけれど白紙で出すより仕方がありませんでした。答案用紙を白紙で出す事など初めてのことで、ショックでした。

 その後一生懸命勉強する気にもなれず、ちょうどすぐに夏休みに入り、その間に終戦となりました。もう2度とあんな体験は嫌だったので、病弱な母には頼れず、一人で名古屋の元の女学校へ行き、復学の手続きをしました。それから一年半ほど、養老線と近鉄で毎日名古屋へ通うのも大変でした。冬などまだ薄暗いうちに家を出ても名古屋駅に着くと、市電に乗るのに長蛇の列でやっとの思いで学校にたどり着いても遅刻ということもありました。名古屋に家を建て直したのは終戦から1年半後。それまでは養老線での通学が続きました。
 終戦から68年。今でも、なぜ海津高女で英語の授業があったのか不思議でなりません。