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「戦争中の新聞等からみえる戦争と暮らし」  ◆九江の町は空き家ばかり
愛知県立大学名誉教授  倉橋 正直



写真

岩田軍医撮影の写真
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 【1】 陥落後、九江の住民は難民区に収容される

地図 漢口 九江 南京 上海

地図
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 九江は揚子江(長江)水運の重要な港町で、南京と漢口のほぼ中間に位置していた。1938年7月26日に陥落する。九江のすぐ南に廬山(ろざん)という山岳地帯があった。さらに南方に鄱陽湖(はようこ)をはさんで江西省の省都である南昌があった。また、長江をさかのぼれば、長江中流の中核都市である漢口に至った。このような地理的な環境から、陥落後、日本軍は九江の町の住民に対し、苛酷な措置を取る。
 九江を陥落させた日本軍は、さらに進撃を続け、南方は南昌(および廬山)をめざし、西方は漢口をおとしいれようとする。日本軍は二つの方面に戦いを起こそうとした。中国からすれば、南昌も漢口もともに重要な拠点であった。だから、中国側は堅固に守っていた。
 南昌作戦および漢口作戦を順調に行うために、日本軍は九江の町を作戦基地として利用する。当時、この地域における、日本軍の軍事物資や兵員の補給はほとんどすべて長江の水運に頼っていた。九江の町の規模は比較的小さかったけれども、長江の有数の港町であった。
 九江の町は戦火を浴びたので、住民は町から逃れ、郊外に避難した。それでも少数の住民が残っていたので、日本軍は彼らを町から追い出した。また、日本軍は、郊外に避難していた住民の帰還を許さなかった。長江のほとりに難民区を作り、そこに彼らを収容した。次の史料がそのようすを物語る。

 和平蘇る九江 明朗の陰に躍る皇軍の苦心 日章旗揚げて茲に一年
 (中略)思ふに、九江はこの事変を通じて各都市のうち、その復旧がもっともおくれた。それはこの都市の重要性、特殊性を意味するものであり、武漢作戦をはじめ南昌、廬山の両攻略戦の作戦基地たらしめた特殊事情の然らしめたものであらう。
  入城記念の日、過去一ヵ年の治安復旧、発展ぶりを眺めては、うたた感慨なきを得ない。占領直後の八月上旬、難民収容所、および外国権益内に逃避せる約七千人の難民を、コレラ、赤痢などの防疫上、罹災者、保有菌者は隔離し、農民は秋の収穫のため、安んじて自らの農園に帰るべく努力した。
 特務機関では、まづ難民整理委員会を設立、江岸に難民区を設けて、三千六百人の難民を収容し、その自治にあたらしめる一方、(中略)  難民区の解放も直に実施出来なかったのは、この九江において、大規模な漢口作戦が樹てられて、一つの拠点となったためであり、本年に入っては南昌、廬山と矢継ぎ早にその戦果を拡大していった作戦の都合上とその特殊性とによるものといはねばならない。
 かくて五月一日より難民解放を実施、六月に入って(第二区のみへの)復帰を開始したが、三千六百の難民は本年はじめ七千人に増加し、(中略) 昨年七月、占領されてより、難民区解消の五月まで九ヶ月間、難民の復帰さへ認められなかったのは、他の都市には事実であり、その間の事情を物語ってゐるものであらう。それだけに機関の努力も並大抵ではなかった。占領一周年記念日を迎へて、九江はすっかり平和蘇り、いやがうへにも、明朗九江の礼讃譜はをどってゐる。
『大阪朝日中支版』 1939年8月2日


 この史料は、九江陥落から一年を経た段階で、九江の町の変化を概括して述べている。まず、1938年7月に九江は陥落する。占領直後の8月上旬、難民収容所と外国権益内に避難していた中国人民間人は7千人にのぼった。
 中国人が避難していた「外国権益」の大部分はキリスト教会であろう。欧米諸国は中国各地に教会を設立していた。そこに相当多くの中国人が避難した。欧米諸国が設立した教会は事実上、欧米諸国の租界や小さな植民地のように扱われた。だから、日本軍も容易に手を出せなかった。欧米諸国と無用な摩擦を起こしたくなかったからである。
 7千人の難民から、まず、防疫上、コレラや赤痢などの罹災者、保有菌者を隔離した。また、周辺の農村地帯から避難してきていた農民たちは、自分の家に帰らせた。 しかし、九江の町に以前から住んでいた住民の帰還は許さなかった。長江の川辺に大規模な難民区を作り、そこに彼らを長期にわたって住まわせた。当初、難民区に収容された民間人は3600人ほどであった。

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 【2】 九江の町は空き家だらけになる

新聞記事 戦線勇士の作品集【99】 

『大阪朝日中支版』 1941年11月25日

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 九江の住人を戻らせなかったので、九江の町は空き家だらけになる。大量に出現した空き家は、次に戦われる南昌作戦および漢口作戦に参加する兵隊たちの一時的な宿泊場所となった。長江の水運を利用して、上海・南京方面から大量の兵隊が続々と九江の町にやってくる。彼らはここで再編成され、それぞれ次の戦地に向かって出かけていった。
 南昌は1939年3月に陥落する。廬山は山岳地帯なので、少し遅れ、同年4月に陥落する。南昌および廬山の作戦が一段落したあと、やっと日本軍は、難民区から九江への住民の帰還を許した。それも、全部の難民を一度に帰還させるのではなく、いくつかに分けて帰還させた。
 具体的には、1939年5月より一部の難民の帰還を許す。6月に入って、本格的に帰還させた。難民は、1939年初めには7千人に増加していた。結局、九江の陥落が1938年7月で、難民区の解消が翌年の5月から始まった。だから、9ヶ月間(本格的な帰還は6月に入ってからだったから、実質的には10ヶ月以上)、九江の住民は郊外の難民区に足止めされ、自分たちの家に帰れなかったことになる。
 漢口は1939年10月に陥落する。それまで、九江は漢口攻略戦の作戦基地として重要な働きを果たしていた。だから、漢口が陥落するまで、九江の町の一部は、これまで通り、住民の帰還は許されず、兵隊たちの宿舎・病院などに使われた。
 長江の川辺に作られた難民区に相当の人数が長期間、住まわされた。彼らは仮設住宅、すなわち簡単に作った掘っ立て小屋か、ひどい場合はテント村に住まわせられた。食糧や日用品・医療品など、彼らが生活するのに必要な最低限度の物資は、すべて日本軍が支給した。

 次は、兵隊(戦線勇士)として中国戦線に出かけていたものが、九江の難民区に実際に出かけて撮ってきた写真とその説明である。著者はすでに内地に帰還しているので、数年前のことを思い出して書いている。

 戦線勇士の作品集【99】  難民区 撮影 小泉茂
  皇軍の保護の下に安らかな生活をする良民達の生活ぶりを撮りたひと思ひ、一日、難民区にカメラを向けました。大道で手軽に店開きする理髪屋、一杯の茶で一日、茶店にねばる彼ら―――大陸的マンマンデー風景です。(中支九江にて)=小泉氏 中支より帰還、現住所 大阪市北区○○○○」
『大阪朝日中支版』 1941年11月25日

 難民区の住人たちを、「大道で手軽に店開きする理髪屋、一杯の茶で一日、茶店にねばる彼ら」と表現している。住人は難民区では何もやることがない。ただ漫然と日を過ごすだけであった。大道で手軽に店開きしている理髪屋に行って散髪してもらう。あるいはまた、一杯の茶で一日、茶店(中国語で「茶館」)にねばるしかない。「大陸的マンマンデー(「慢慢的」)」とは、「大陸的にゆっくりと」という意味である。難民区ではまともな仕事はできるはずがないのであるから、マンマンデー、すなわち「ゆっくりと」生きてゆくしかなかった。
 難民区に長期間、監禁された避難民の苦痛に、筆者は同情していない。彼らを気の毒だと思わなかったのであろうか。あるいは、そのように書いても、当時の新聞ではすべて削られてしまい、勇ましい言説だけが掲載されたのかもしれない。

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 【3】 岩田錠一軍医が撮影した写真

 岩田錠一(1896~1976)は名古屋出身の軍医である。軍医といっても、レントゲン技師であって、准尉か少尉程度の下級将校であった。1938年7月から1941年1月まで、約2年半、中国に出征した。彼は写真が趣味で、戦地で撮影した写真を多く残している。仕事がら、自由に撮影し、自由に現像できた。主に九江の軍の病院に勤務したので、残された写真の大半は九江で撮影したものである。
 岩田錠一軍医の九江滞在期間と、九江の住民が難民区に監禁されていた時期は重なる。岩田軍医の2年半の九江滞在の、初めの9ヶ月は住民の帰還が禁止されていた時期であった。だから、彼が初期に撮影した写真は、住民の帰還が禁止され、「空き家」だらけになっていた九江の町の状況であった。

写真【1】


写真【1】 岩田錠一軍医撮影
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 岩田軍医が撮影した写真を紹介する。
 写真【1】には、「廬山 牯嶺ノ外人別荘地帯 昭和十四年五月二十八日 牯嶺街附近ヨリ写ス」という説明文がついている。廬山には牯嶺(これい。Coolingの当て字という。)という名前の、多くの欧米人が利用する別荘地帯があった。日本軍は牯嶺街を占領する。岩田軍医も牯嶺街まで登ってゆき、欧米人の別荘地帯を撮影した。

写真【2】


写真【2】 岩田錠一軍医撮影
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 写真【2】には、「廬山 決死撮影 秋色ノ山又山 敵影多々 頭ヲ出セバ ポント来ル」という説明文がある。廬山はいくつかの山々が重なっている山岳地帯であった。日本軍は、その中の中心地である牯嶺街を占領する。しかし、付近の山々を全部、押さえたわけではない。中国兵はまだ付近の山に潜伏していた。「敵影多々 頭ヲ出セバ ポント来ル」と述べているように、頭を不用意に出せば、近くの山から中国兵に狙撃される危険があった。

写真【3】


写真【3】 岩田錠一軍医撮影
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 写真【3】には、「九江市 目抜キ通リ 大中路」という説明文がある。目抜き通りの大中路を日本軍の将兵が歩いている。通りに止まっているのは軍用車両であろうか。中国人は一人も写っていない。

写真【4】


写真【4】 岩田錠一軍医撮影
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 写真【4】には、「九江 時計台附近」という説明文がある。この時計台は九江市の繁華街の象徴だったようである。日本軍の将兵や従軍看護婦らしい女性も写っている。しかし、中国人は一人も写っていない。

写真【5】


写真【5】-1 岩田錠一軍医撮影
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写真【5】


写真【5】-2 岩田錠一軍医撮影
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 写真【5】には2枚の写真が貼られている。「九江市」と「慰安所」という説明がある。「九江市」とあるほうは明瞭さに欠けるが、繁華街の写真である。やはり、無人の街である。「慰安所」とあるほうは珍しい写真である。これについては、別稿で論じたい。 九江の繁華街(大中路)の写真がある。九江は比較的小さな規模の港町であった。しかし、避暑地として有名な廬山への登り口でもあった。中国の夏の強烈な暑さから逃れるために、多くの欧米人が廬山に別荘を設けていた。夏になると、多くの欧米人が長江の汽船から下り、九江の町を通って、廬山の避暑地に登っていった。欧米人が頻繁に往来することから、九江の繁華街は、地方都市の割には珍しくあかぬけしていた。九江はいわば往時の日本の軽井沢町に当たった。

 岩田軍医の撮影した写真から、九江の繁華街のこぎれいで、こざっぱりした様子を見てとることができる。しかし、彼の撮影した繁華街の写真には、建物と日本軍隊だけが写っているだけで、地元住民の人影は全くない。軍人を除けば、無人の街である。
 当初、これらの写真を見た時には、このことに気づかなかった。早朝にでも撮影した写真かと思った。だから、人間が写っていないのだろうとしか考えなかった。しかし、それは明らかに誤解であった。昼間になっても、九江の繁華街は無人の街であった。前述したように、日本軍は九江占領後、9ヶ月間も、九江の住人を帰還させなかったからである。その間、繁華街は無人の状況がずっと続いたことになる。その状況を、岩田軍医がたまたま撮影したことになる。

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 【4】 一部の中国人だけは九江の町へ送り込んだ

 次の史料は、まだ難民区に住民が監禁されていた時期の九江の町のようすである。

 九江の日本色
 (中略)  事変前まで僅かに四十余名に過ぎなかったものが、戦塵の収まるとともに加速度的に増加して、昨年来の調べでは372名となり、現在では事変前の十倍、四百名を遥に突破して、力強い海外進出振りを示してゐる。支那人の復帰を見ない街は未だ荒廃してゐるが、目抜通り大中路など、ハイヒールの女や振袖の娘さんが姑娘と肩を並べて歩いてゐる風景も、毎日のやうに見られるやうになった。(中略)  小学校や病院の建設も着々計画されてゐる。
『大阪朝日中支版』 1939年1月5日

  1939年1月の段階で、400名を越える在留日本人が九江の町にやってきていた。
 「支那人の復帰を見ない街は未(いま)だ荒廃してゐるが、」という一節から、この段階ではまだ住民の帰還は許されていない。「大中路」は九江の町の目抜き通りであった。その「大中路」を歩くのは、まず「ハイヒールの女や振袖の娘さん」である。彼女たちは日本人の売春婦である。彼女たちは、九江の町に次々とやってくる日本軍の兵隊たちの相手をした。ちょうど正月なので、彼女たちの中には振袖を着て、着飾ったものもいた。
 次は「姑娘と肩を並べて歩いてゐる」という一節にある「姑娘」(クーニャン)である。「姑娘」は中国人の若い女性である。彼女たちは、不幸にも戦火に巻き込まれ、日本軍の兵隊を相手に、むりやり売春をさせられていた。
 日本軍は、九江にもともと住んでいた地元の住民を難民区に長く監禁して、九江の町に帰還させなかった。それでは、すべての中国人を九江の町に入れなかったかというと、そうではなかった。日本軍は、中国人を選別し、必要になものに限って、九江の町に送り込んだ。 
 ここに出てきた「姑娘」、すなわち中国人の若い女性たちもその一つである。

 岩田軍医の撮った写真の中に、「慰安所」という説明のあるものがある〔写真【5】〕。この写真は従軍慰安婦問題に関連して「慰安所」なるものを考えるのに、きわめて重要なものである。
 慰安所の建物の前に人力車があり、その横に車夫が一人、座り込んでいる。当時、中国の都市では人力車が簡便な交通手段として、広く利用されていた。日本軍も、日常的な交通手段として人力車を必要とした。この車夫として中国人を九江の町に送り込んだ。
 また、1941年1月、岩田軍医が九江を去る時に、「苦力総班長」の中国人(「周文傑」と称した)から、中国文で書かれた、餞別の「決別感謝状」をおくられている。その「決別感謝状」は、ピースあいちのメールマガジン第22号(2011年9月)にすでに紹介しておいた。九江の日本軍は、仕事の下請けとして「苦力総班」を作っていた。苦力は男性の下層労働者を指す。力仕事などで、人手が必要な場合、日本軍は彼らを使用した。だから、苦力としても、一部の中国人を九江の町に送り込んでいた。
 このように、地元の住民を帰らせない時期においても、日本軍は、一部の中国人、すなわち、日本軍の兵隊の売春の相手をむりやりさせられる若い女性たち、人力車の車夫、および苦力などを、必要に応じて九江の町に送り込んでいた。

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 【5】 難民区から地元住民の帰還

 次の二つの史料は、難民区から、地元民が本格的に九江の町に帰還してくる1939年6月の状況である。

 九江、本腰入れて復興
 (中略)メイン・ストリート大中路には、日傘をさして散策する姑娘の平和な姿もめっきりふえてきた。街の中心、時計台から左、支那難民区内も事変前の平和がすっかり蘇り、陶器品を売る骨董屋、煙草屋、豚肉屋、靴屋等々、ぎっちりと立ち並んで、往来をゆく支那人の顔も明るい。いま、軍特務部では本腰を入れて区画整理、難民の復帰、彼らの生活対策などに懸命な努力をつづけてゐる。九江は夏の陽とともに逞しく蘇る。
『大阪朝日中支版』 1939年6月13日

 「街の中心、時計台から左、支那難民区内も事変前の平和がすっかり蘇り、」とある。岩田軍医の写真【4】にも時計台が写っていた。写真では、交差点の中央に、ハイカラな時計台が大きくそびえるように立っていた。この時計台は九江の繁華街の象徴だった。
 この時計台の「左側」が、「支那難民区」であった。6月になって、難民区が解消される。この結果、それまで難民区になっていた区域が、もとの姿に戻りつつあった。「陶器品を売る骨董屋」がすでに営業していた。九江の町はもともと陶器の生産が盛んであった。日本側は、これを「九江焼き」と呼んでいた。実際、陶器の生産も次第に復活していった。

 次の史料では、「六月に入ってより、難民の解放」とあるので1939年6月に入って、難民区に長い間、収容されていた住民が、九江の町に帰還し始めたのである。

 明朗九江の姿 復興に努力 愛民橋の本格的復興へ
 六月に入ってより、難民の解放、道路清掃など日増しに「明朗九江」の姿を蘇らせるべく、その復興に努力しつつある九江では、石割部隊の手により、龍関河に架せられた九江唯一の鉄橋・愛民橋の本格的復旧に着手することとなり、
『大阪朝日中支版』 1939年6月18日

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 【6】 もとの住民が4.5万人、戻ってくる

 次の史料は1940年8月の九江の町のようすである。九江が陥落して、ちょうど2年、経過している。九江の住民の多くを実質、10ヶ月間も監禁していた難民区も、1939年6月には解消されていた。

 更生二周年迎ふ――九江のカメラレポート――
奥地開発の前進基地 溌剌たる復興建設の槌の音 親み深い長江の要地

 (中略) ミナト九江 われわれにはもっとも親しみ深い長江筋の要地である。街を歩く。あまり広くもない細長い街区の割合に、まづ驚かされるのは、支那難民らがおそろしく街に溢れてゐることだ。市内在住の難民約四万五千。事変前の九万には、まだ遠くおよびもつかないが、それでも、彼らの復帰率の力強さは他のいかなる占領都市よりも、遥かに擢ん出てゐるといはれる。そのことは皇軍による確固たる治安の維持と、躍進九江のすばらしき繁栄を裏書きする以外の何ものでもない。
 武漢攻略戦では、ここが重要な兵站基地となったためか、ついさきほどまでは、市街もかなり破壊の跡をとどめてゐたが、更生二周年を迎へた昨今では、復帰難民によって、至るところに溌剌たる復興建設の槌が揮はれ、街にはすばらしい活気が漲ってゐる。ここは昔から、長江でも屈指の開港場であったとともに、南潯鉄道の基点として、宝庫・江西省の門戸を扼してゐる。その産業的、経済的地位が重要視される理由はここにあるのだ。
 在留邦人は一千五百だが、この地を経済開発の前進基地として、奥地へ奥地へと進出をつづける邦人の動きは、最近、いっそう活溌となってきた。
『大阪朝日北支版』 1940年8月8日

 「まず驚かされるのは、支那難民らがおそろしく街に溢れてゐることだ。」とか、「市内在住の難民約四万五千。事変前の九万には、まだ遠くおよびもつかないが、」とある。まず、「支那難民ら」や「市内在住の難民」をどのように理解するかである。「事変前の九万」だったのが、1940年8月の時点で、「約四万五千」になったと記事は述べている。
 彼らを、南昌や漢口方面から九江に避難してきた、いわゆる(遠方から九江にやってきた)避難民と見ることはできない。たしかに「難民」と表現されているので、誤解されやすい。しかし、彼らはもともと九江の町に住んでいた住民であると私は考える。
 九江の町の経済活動は、戦争以前のように回復していない。住民たちには働く場所がない。やむなく日本軍に頼って、なんとか生活していた。自前の経済能力をまだ取り戻せず、日本軍の支援物資に依拠して暮らしているので、九江のもとからの住民であるにもかかわらず、記事は彼らを「難民」と表現したと、私は理解する。

 難民区に収容されていたのは、1939年初めで7千人であった。彼らがまず、九江の町に戻ってくる。また、彼ら以外にも、九江の住民の多くが郊外に避難していた。日本軍の規制が解け、九江の町に戻れるようになったと聞いて、彼らも続々と帰ってくる。その結果、1940年8月の時点で九江在住の中国人は約4.5万人になった。
 「事変前の九万」とあるので、戦争以前、九江の人口は9万人であった。だから、1940年8月の時点で、およそ半数の住民が帰還したことになる。「帰還率の力強さは他のいかなる占領都市よりも、遥かに擢(ぬき)ん出てゐるといはれる。」とあるので、もとの住民が半分、戻ってくるというのは、極めて高い比率だったことになる。
 住民の半数が戻ってきたこと、九江が「昔から、長江でも屈指の開港場であ」ること、および「江西省の門戸を扼してゐる」「南潯(なんじん)鉄道の基点」であることから、今後、九江はめざましく回復してゆくであろうと、記事は九江の前途を楽観視している。

 最後に、九江在留日本人にふれている。当時、1500人の日本人が九江にいた。九江を「経済開発の前進基地として」、「奥地へ奥地へ(南昌や漢口方面であろう)と進出をつづける邦人の動きは最近、いっそう活溌となってきた。」と、九江在留日本人の活躍を期待している。しかし、これは戦争の成り行きに左右されざるをえなかった。とにかく、長江屈指の港町であるという九江の町の特徴は、日中戦争においても、日本軍から十分、利用された。
(2013年1月17日)

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