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「戦争中の新聞等からみえる戦争と暮らし」  ◆ 女性の服装・着物の氾濫
愛知県立大学名誉教授  倉橋 正直



関連の新聞記事をPDFでご覧いただけます。
http://www.peace-aichi.com/20120723_kurahashi.pdf



 【1】日本人町における「着物の氾濫」

 日中戦争時、中国戦線に多くの日本人(民間人)が移住した。敗戦後、中国戦線から引き揚げてきた民間人は49万人であった。女性は約4割として、20万人であった。彼らは既存の中国の都市の一角に集中して居住し、日本人町を形成した。
 男性は洋服を着用したので、服装では中国人と変わらなかった。子どもや生徒は洋服型の制服を着た。また、少数の職業婦人も洋服型の作業服を着た。しかし、それ以外の女性は普段着としてキモノを着用した。
 キモノは日本人の民族衣装なので、中国では目立った。キモノ姿の女性は、いわば日本軍の軍事支配の象徴であった。キモノ姿の女性が多くいれば、そこが日本人町であった。当時、日本内地でも女性の普段着はキモノであったから、内地の服装がそのまま軍事占領地にも持ち込まれたのである。最も多い時で20万人もの日本人女性が、キモノを着て中国の軍事占領地に居住したことになる。日本の新聞はそれを「着物の氾濫」と呼んでいる。

 暖くなるにしたがって、街のあちらこちら花やかな日本着物の氾濫で、故国日本の香り紛々たるものあり。これも躍進日本の一つの現はれか。〔大陸録音〕
『大阪朝日中支版』1938年4月9日  (〔大陸録音〕はコラム欄である。)

 街は朗らかな兵隊さんの爆笑と美しいキモノの氾濫。流石に躍進済南の“美しき出発”を反映して、各映画館、百貨店、飲食店も超満員。質実のうちにもおさへきれぬ大陸第一線景気が満ち溢れてゐる。
『大阪朝日北支版』1940年1月7日

新聞(部分)

大阪朝日新聞北支版 1938年9月18日
大陸の興亜建設陣 “きもの”の済南
日本人街の発展、見よ、街頭に氾濫するきもの、きもの
『大阪朝日北支版』1940年1月9日
新聞記事 PDFはこちら↓
http://www.peace-aichi.com/20120723_kurahashi.pdf


 作家の大田洋子は、中国戦線からの帰国談で、「ホテルや食堂に働く日本婦人」は、どういうわけか、「洋服を着る事は禁じられてゐるのださうです。」と述べている。彼女たちがキモノの着用を強制されていたというのは、にわかに信じられない。一般的にいえば、当時、キモノが普段着だったから、中国に移住してきても、同じようにキモノを着たということであろう。

 中支より帰りて (中略) 大田洋子さんの土産話 
(中略) それにしても、現地で働く日本婦人が不自由な日本服でゐるのには全く同情を禁じ得ませんでした。ホテルや食堂に働く日本婦人が、どういうわけか、揃って和服を着てゐるので、尋ねてみると、洋服を着る事は禁じられてゐるのださうです。しかたなく、彼女達はペラペラした絹物を着てゐましたが、働きが荒いので、直ぐに裾は切れる、全くやれ切れないと嘆いてゐました。
『東京朝日新聞』1940年6月29日

 日本人町には売春婦が多くいた。彼女たちは、遊客を迎えるために美しく装う。きれいなキモノを着、日本髪を結う。日本髪は自分一人では結えない。髪結い(結髪業者)に結ってもらう。

新聞(部分)

大阪朝日新聞北支版 1939年12月27日
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 次は南京のようすである。「日本髪に結った姐さん」は売春婦である。

 『お正月用品大売出し』と張紙を出して、山のやうに商品を積み上げた店、日本髪に結った姐さんの姿も街頭のそこ、ここに見られ、これが支那かと思はせるほど、日本色の横溢した年末風景である。
『大阪朝日北支版』1939年12月27日


 売春婦が多かったから、彼女たちの需要に合せて、髪結いが日本人町に多くいた。

 天津の邦人驚異的激増
(中略) 天津日本総領事館警察署の12月31日現在の統計を見ると、届出邦人総人口が (中略) 3万5千8百名といふ数字になってをり、 (中略) 花柳界は繁昌のバロメーターで、結髪業が36軒など。とにかく、まだまだ、これからいくら延びるか分らない邦人発展のうれしい進出譜ではある。
『大阪朝日中支版』1939年1月14日

 ちなみに、同記事によれば、この時、天津の飲食業と売春関係の店は次のような状況であった。――飲食店244軒、料理店15軒、カフェ54軒、喫茶店14軒、芸者置屋13軒、旅館56軒、下宿屋41軒、貸間業77軒。天津の売春関係の店舗がこれだけの勢いであったから、結髪業が36軒も存在しえたのである。

アルバム写真

 紹介する写真は、岩田錠一軍医が九江(江西省)の軍の病院で撮影したもので、「九江美妓患者慰問 14.10」という説明がある。女性たちは「美妓」とあるから芸妓である。1939年(昭和14年)10月に慰問にきた時の撮影である。25名ほどの女性はほとんどキモノ姿である。一人の女性は日本髪のカツラをつけている。お座敷に呼ばれる際、彼女たちはみなカツラをつけて、盛装した。髪結いが多く必要なことが理解されよう。

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 【2】中国側の低い評価

 「着物の氾濫」という事態をつきつけられて、中国人はキモノをしげしげと見る。キモノは、日本人がその気候・風土や文化・習慣に合わせて、長い時間をかけて、はぐくんできた独自の民族衣装であった。だから、日本人がその民族衣装としてキモノを着ることは別にかまわなかった。日本人女性とキモノの取り合わせは、きっと似合っていると認識されたことであろう。

 しかし、キモノを衣類一般として、あるいはまた、自分たち中国人が着るべき衣類として、評価しようとすれば、おのずから別であった。中国人は低く評価した。中国側は遠慮がちにキモノを批判する。たとえば、

 山東省長・馬良氏、日本人招待席上の座談で、『日本婦人のキモノは大いに改良の余地があると思ふ。だが、この際、いっそ欧米風の服装もさらりと棄てて、日支人共通の衣服が出来ンものか。』と力説した。一寸、皆さんの御参考までに。(済南)〔大陸録音〕
『大阪朝日北支版』1938年12月1日

 また、日本と中国の女性たちの「親善」座談会では、中国人側から、キモノの帯の不備と、素足が露出していることが指摘されている。

 日華女性の親善座談会
(中略)  中国側  衣類ですが、日本の着物はなかなかよいと思ひます。しかし、あの帯は一寸無駄のやうに感じますね。  日本側  一種の飾りです。  中国側  日本婦人が素足で歩いてゐますが、どうして靴下などをはかぬのです。  日本側  暑い時、家に居る場合は、素足です。しかし、日本には素足の美といふことがあります。
『大阪朝日北支版』1942年2月18日

 中国人はキモノを身近に見て、キモノの機能性の不備や中国人との意識の違いを指摘する。とくに素足の露出は到底、認めがたいものであった。中国人女性にとって、キモノはそれほど魅力的な衣服ではなかった。キモノにあこがれ、キモノをぜひ着てみたいという女性はいなかった。前に紹介した、作家、大田洋子もまた、キモノは中国人女性に受け入れられなかったと認めている。キモノは、中国人はじめ諸外国の女性に着てもらう国際的な衣服としては、明らかに落第であった。

 そしてまた、支那に来た日本婦人達が直ぐに支那服を作るに引かへて、日本に来た外国人はなかなか日本服を作らうとしないし、欧州かぶれのした支那婦人も、服装は支那服を着てゐる事実は、はっきり日本服の性格を表はしてゐると思ひます。
『東京朝日新聞』1940年6月29日

 ズボンは筒状の布で足首まで覆っていた。風が足まわりに入ってこないので、暖かかった。寒冷地に暮らす場合や、冬季の寒さがきびしい時期には、ズボン状の衣服はたしかに適していた。比べて、キモノは、寒さ対策よりも、むしろ夏の蒸し暑さをどのように快適に過ごすかのほうを重視していた。日本の夏は蒸し暑く、過ごしにくかった。ズボンのように直接、筒状の布で足を覆うと、下半身は蒸れて、不快であった。その状態を避けるために、外部から見えないように、身体全体にゆったりと布を巻きつけ、帯でとめるだけとした。
 風が入ってくるので、足まわりは涼しく過ごしやすかった。蒸し暑い夏は、とりわけ素足が好まれた。靴下や足袋を履かず、素足に下駄や草履を履いた。キモノには、蒸し暑い夏の季節を乗り切る種々の工夫がこらされていた。
 しかし、ズボンのような形式にしなかったことで、弱点もあった。キモノは本質的に激しい運動には不向きであった。激しい運動をすれば、容易に裾が開き、素足が露出してしまった。足もとだけでなく、太ももまで露出することもあった。また、キモノは馬に乗るには不向きであった。馬に乗るには、やはりズボンのほうが適していた。
 要するに、キモノは、ズボン式でないことから、(1)素足が容易に露出した。 (2)防寒機能が不備であった。とくに足元が冷えた。 (3)激しい動作に不向きであった。激しい運動をすると、太ももまで露出してしまった。 これ以外に、(4)帯を何回も結ぶのが無駄のようだと批判された。

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 【3】素足の露出

 これらの問題点のうち、「(1)素足が容易に露出した」は、実は日本人同士では全く問題にならなかった。日本内地では「素足の露出」はごく当たり前のこととして受け止められていた。しかし、中国人からすれば、素足の露出は到底、認めがたいものであった。こうした状況の中で、キモノを着た日本人女性の「素足の露出」が大きな問題になっていった。日本人には思いがけないことであったが、日本と中国の文化・習慣の違いから来ることであるから、しかたがなかった。

 次の史料は、中国人が「素足の露出」を、いかに嫌うかを説明している。

 支那人は最下級の苦力輩に至る迄、四季を通じて必ず白足袋を穿ち、顔面以外は、身体の如何なる部分をも風気に晒すことを極度に忌み嫌うのである。随って、西洋婦人が胸の上部や両腕を露出して歩行し、日本婦人が、下脚部や、素足を見せて外出するのを、支那婦人は一種の戦慄を覚ゆると言う。支那では婦人の踵を異性に見せる事は、非常な冒険事とされて居る。
満鉄東亜経済調査局編『満州読本』、1927年、73頁

 中国人が「素足の露出」を嫌うことは、以前からよくわかっていたので、日本側(憲兵隊・領事館警察・居留民団・新聞社など)は、日本人町の住民である在留日本人に対して、キモノを着用する場合、素足を露出しないようにくりかえし警告した。
 しかし、在留日本人には軍事占領者の一部という、おごりがあるので、こういった警告は往々にして無視された。実際、日本内地でずっと慣れ親しんできた生活習慣を、中国にやってきて、急にあらためることは容易ではなかった。

 罰則まで設けて禁止するほどの重要事とは思われなかったので、在留日本人女性は自分たちの生活習慣、すなわち素足の露出をずっとやめなかった。そのことは、まちがいなく周囲に住む中国人を不快にさせた。次に示すように、新聞には在留日本人が警告を無視して、素足を露出する例が数多く紹介されている。

 聖戦一年。大和撫子の大陸進出もまためざましい。炎天の下、厚化粧に素足で、黄包子(人力車)のうへで、ふんぞりかへる彼女らの勇姿(?)は、ちょっと考へさせられる。(南京)〔大陸録音〕
『大阪朝日中支版』1938年8月25日

 支那街へ、支那街へと、日本人は物凄い進出振り。だが、女が裾をはしょり、前をだらしなく、はだけて、うろつくのは、大和民族の発展とはいひかねる。(天津)〔大陸録音〕
『大阪朝日北支版』1938年10月11日

 中国の夏も猛烈な暑さであった。そのこともあって、日本人女性は往々にして素足をさらし、下駄履きで、キモノ本来の涼しさを満喫した。そこで、日本側の取締り当局も、夏の暑い時期に限り、素足の露出は大目に見た。

 時局柄であり、暑苦しくもあり、芸妓、酌婦、仲居の服装は、束(たば)ね髪に、浴衣、素足でも構はぬと、寛大なお達しが出ました。(青島)〔大陸録音〕
『大阪朝日中支版』1939年7月26日

 次は済南の場合である。8項目にわたり、取締要綱が記されている。逆にいえば、このような事態が頻繁に現れたということである。なお、アッパッパは、「女性が夏に着る家庭用のワンピース。通気性をよくするように、ゆったりと作る。」(『大辞泉』)である。
 蒸し暑い夏に最適の衣類であるが、これも素足が露出する。中国人から見れば、無作法な衣服の典型であった。だから、家庭で着るのはかまわないが、それを来て外出するなと指導している。一方、「浴衣着の日本婦人の素足は大目にみることになり」とあるので、夏場に限り、当局も「素足の露出」に対する取締りをゆるめていたことがわかる。

 大陸・猛夏の話題 偲べ前線、正せよ身形 熱都済南邦人風紀取締 官民協力で新運動
(中略) 銭湯帰りの洗ひ髪に伊達巻姿の接客婦人らの横行など、余りにも暑さに紊れた済南の夏の街頭風景に、 (中略) なほ、取締要綱は次のごとくである。
 一、泥酔徘徊  二、浴衣がけ細帯類で外出  三、婦人のアッパッパのまま、または洋装に下駄ばき  四、男子 洋服に下駄ばき、および腕捲り、肌ぬぎで市中を歩く  五、婦人の洗髪のまま伊達巻き  六、洋車上の不体裁な恰好で、服装、風紀を紊す  七、婦人の服装で、色彩形態の極端にわたり、好奇心を唆る如きもの  八、その他一等国民として体面、品位を傷けるが如き服装・行為など
 なほ、本年からは領警当局の親心で、浴衣着の日本婦人の素足は大目にみることになり、無理に足袋をはいて、暑い思ひをしないでもよいこととなった。これは日本婦人多年の風習と最近の物価高による足袋の値上りなども考慮に入れた、当局の粋なはからひである。
『大阪朝日中支版』1941年6月14日

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 【4】 モンペの着用へ

 戦争の拡大と激化により、キモノが激しい運動に不向きだという問題がはっきりしてくる。
 男性が兵隊にとられ、町からいなくなったので、代わりに女性が軍需工場で働いた。また、予想される空襲への対応も多く女性の担当とされた。女性は、次第に戦時下のきびしい状況下で、男性並みの働き手として期待されてゆく。
 女性は、今まで経験したことのないような激しい動作が求められてゆく。その場合、従来のキモノでは明らかに対応できなかった。キモノ姿で激しい動作をすれば、容易に裾が開いて、太ももまでさらしてしまった。こうして、キモノの弱点を補うために、モンペの着用が奨励されるようになる。この動きは直ちに中国戦線の日本人町にも波及した。

 中国戦線で真っ先にモンペを受け入れたのは、寒冷地に居住する日本人町であった。山西省北部に位置する晋北地区朔県では

 大陸第一線にモンペ制服の国婦会生る――蒙疆晋北地区朔県(北部同蒲線)国防婦人会は文字通り最前線の国婦会として会員130余名 (中略) 同分会では、このほど本年度臨時総会を開いた際、婦人服新体制に呼応して、断乎、モンペを制服として採用、如何なる場合といへども、モンペ姿の甲斐甲斐しさで、活動することを決議したが、恐らく蒙疆では勿論、大陸最初のモンペ国婦会であらうといはれてゐる。
『大阪朝日北支版』1940年12月6日

 日本内地と同様に、中国の日本人町でも看護婦、タイピスト、事務員、電話交換手、小学校教員などの女性たちは、以前から洋服型の制服を着用していた。戦争が激化する中で、他の職域でも、キモノに変えて、活動的な洋服型の制服が広がっていった。次に紹介するように、華北交通の済南鉄路局では新たに女子従業員のために洋服型の制服を作った。

 働く女性の服装 済鉄局
 華北交通済南鉄路局では、新女子服装を制定。局250の女子従業員が着用する。この女子服は男子労働戦士の職場服装型を改良し、袖なしの胴着にバンド附。すぐズボンになり、ズボンの裾は紐で括り、防寒を兼ね、事ある秋はモンペの代用ともなって、軽快敏速に活動出来るやう、工夫された仕事着で、色は黒。地は丈夫な木綿。頭には同じ黒地の三角帽を被り、紅緑で華北交通のマークを刺繍してゐる。
『大阪朝日北支版』1943年2月24日

 モンペが奨励されたが、モンペは元来、田んぼや畑で働く作業着であったから、なんとなくやぼったく感じられ女性たちはモンペをなかなか着用しようとしなかった。た。とりわけ、夏季、蒸し暑い時期には、足元が涼しいキモノが好まれた。
 従来になかったような緊急事態の到来が予想されれば、デザインはやぼったくても、活動に便利なモンペを着用したであろう。しかし、今までとほとんど変わらないような日常が続いている所では切迫感に乏しく、モンペは敬遠されがちであった。次は1941年3月の天津の状況である。この時期、まだモンペ着用に積極的ではなかった。

 天津巷談 天津モンペ運動
(中略) 西宮島街附近で、烈風砂塵、吹きまくるなかに挙行された、皇軍精鋭部隊を中心とする郷軍、学生軍参加の立体攻防演習は実戦以上の壮絶なものとなり、万余の観衆の手に汗を握らせたが、はるばる日本租界から演習を見学に来た在津国防婦人会のご連中は、頭からすっかり砂塵をかぶり、随分と苦難の参観を行った。
‥‥‥ところが、この国防婦人たちの服装を見ると、一人としてモンペをはいてゐる婦人がゐないので、風当りのひどい演習場附近での行動も不十分となり、意義ある記念日行事に、悪くいへば、醜態をさらした結果となった。これは、国婦幹部も手落であったと後悔してゐる模様だが、日本国内はもちろん満州各地では、早くから国婦の会合には総てモンペを着用してゐることだし、外地でしかも多数の外国人と雑居してゐる天津のことであるから、一日も早く“モンペ運動”を起し、国婦の会合などは総てモンペで活動しやすいやうにするべきだとの声が高い。
『大阪朝日中支版』1941年3月18日

 大阪では、モンペの代わりに、おしゃれに男子のズボンが着用されたという。原理的には男子のズボンでも、キモノの弱点を十分に補っていた。しかし、この時代、統一が好まれたので、モンペの代用としての男子ズボンの着用は禁じられた。。

 また、このごろ一つの流行型ともなり、大阪でも一部に見うけられる婦人の男子ズボン着用の是非論も、この日、検討されるが、男子ズボンは活動的であり、間に合せ運動に即するといふ女性側の弁は、翼賛会支部で調査した結果、大部分は身にぴったりするやうにと、わざわざ生地を購入のうへ、苦心して新調するものが多いことが判明。しかも、長ズボンにハイヒールで闊歩する姿は、米英臭の濃厚なものとして、同支部では排撃の方針であり、大阪府女子青年団では20万の団員に、ちかく檄を飛ばしてズボン着用を絶滅する。
『大阪朝日北支版』1943年3月17日

 中国戦線の日本人町に居住する日本人女性も次第にモンペを着用してゆく。モンペに合わせ、簡便な靴(ズック靴など)も履く。こうして、中国人をそれまで悩ませていた「素足の露出」現象は解消された。それでは、モンペを履き、靴を履いた、日本人女性の新しいキモノ姿に接して、中国人は従来の低い評価を変えたであろうか。
 素足が露出しなくなっても、中国人のキモノに対する評価は取り立てて変化しなかった。彼らにとって、キモノを着る日本人女性は軍事的支配者の一部であったから、彼女たち自身や彼女たちの着る民族衣装に対しても好感を持てなかったからであろう。
 また、新しく着用し始めたモンペは、中国人の目から見ても、好ましい衣服とは思われなかった。もともとモンペは作業着であったから、やぼったく、衣服として洗練されていなかった。だから、新たにモンペを着用しても、中国人のキモノに対する評価は低いままにとどまった。
(2012年7月18日)

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