パラオで考えたこと(その3)  ペリリュー島 「玉砕ヲ禁ズ」 果てしない戦闘へ
                            ピース研究会  丸山 豊



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写真① ペリリュー島の美しい海岸線

 私の本棚にすごい資料が眠っていました。2008年放映のNHK「証言 兵士たちの戦争、パラオ・ペリリュー島」DVDです。今回はこれを視た感想、番組内容、生存兵士の証言を中心に書きます。
 改めて視ると、ペリリュー島の戦闘は自決すら許されない捨て石・持久戦であり、他の南洋諸島の戦闘とは性格が異なることが分かりました。サイパン、グアムまでは「玉砕」を英雄的行為と賛美してきた大本営は、ペリリュー島の戦闘では玉砕禁止命令を出します。本土決戦を予想した上での命令でした。
 面積は東郷町(愛知県)程度(20㎢たらず)の小さな島ペリリューでの戦いは、アメリカ軍を引きつけ次の作戦(フィリピン攻撃)を遅らせるための時間かせぎ、つまり自決・玉砕を許さない「終わりなき壮絶な持久戦」となったのです。(写真①)

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写真② 洞窟陣地の入り口

 1944(昭和19)年2月、ソ連侵攻に備え満州に駐留していた第14師団は、大本営から当初マリアナ転進を命じられます。(注1)ところが2ヶ月かけて着いた(4/24着)ところはパラオでした。極寒の地から思いもよらぬ南国への派遣変更です。到着約1か月前の3月30~31日、連合艦隊司令部があったパラオ、コロール島はアメリカ軍の大空爆を受け、日本艦船は壊滅していました。「マリアナよりまずパラオへ」と急きょ8,998名(陸軍5.352名、海軍3,646名)がペリリュー島に配備されました。(陸軍は茨城、歩兵第2聯隊が主)(注2)  (注1)(注2)へジャンプ

 島には二本の滑走路を持つ大規模な飛行場があり、ここをアメリカ軍から死守することが兵士たちに求められました。彼らに課せられたのは、アメリカ軍の爆撃に備えて堅固な陣地を作ることでした。
 「ペリリュー島は石灰岩の岩山だからね。小さなシャベルで寝る時間もないくらい朝から晩まで岩ほり、陣地構築は大変だったよ。」(生存兵士の証言) 
 島の岩山に洞窟を掘るというほとんどが手作業の過酷な労働、奥行きは10~30メートル、その数500。沖縄の自然ガマとは比較にならないほどの小さな壕です。それらの壕に約一万人の兵士がひそみ、上陸する米軍を襲うというゲリラ戦を考えていたことが分かります。(写真②)

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写真③ ジャングルが焼け焦げ山肌となった丘陵地帯
 平塚柾緒編 『太平洋戦争史 徹底抗戦 ペリリュー・アンガウルの玉砕』 (月刊沖縄社 1977) より

  私たちが島を回ったときは、戦跡として保存されたもの以外の「手堀り壕」には気づきませんでした。戦況に合わせて移動可能な蛸壺(たこつぼ)陣地を四ヶ月かけてやっと構築した9月、アメリカ軍の艦砲射撃が始まります。
「島のぐるり、隣の艦隊にまたいで行けるほど敵の艦隊が接近して、海岸を取り囲んで砲撃を続けた。」(証言)
 すさまじい艦砲射撃が二週間、ペリリュー島のジャングルの青い山が見る間に茶色の山肌に変わっていきます。あっという間に飛行場は壊滅、パラオ全域の制空権、制海権を共に失いました。1944(昭和19)年9月15日、アメリカ軍が上陸を開始しました。(写真③)

 「血の海だからな、アメリカ兵と日本兵が浮いている。」(証言)
 洞窟にひそんでいた日本兵が攻撃を仕掛けてくる。それを予測できなかったアメリカ軍は、上陸一週間で約1,900人に及ぶ死傷者を出します。米軍はすぐ新たな兵器を導入、火炎放射器と手りゅう弾でした。洞窟にひそむ日本兵への徹底攻撃で、洞窟陣地は次々破壊され、攻撃2週間で日本軍の死者は約8千人に及びました。こうしてアメリカ軍は島の全域を支配下に置きます。洞窟に息をひそめて隠れても南北7~8キロメートル、東西で最大幅3キロメートルの島、真夜中しか移動できません。周りは死体だらけです。
 「いやー、すごい。もう死骸ばかりだから、夜歩く時もあばら骨を踏みながら歩く、バリ、バリっと。」(証言)

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写真④ 大山山頂の真下に掘られた司令部地下壕周辺
 弾よけのドラム缶が今も残る

 戦いが始まって一ヶ月、弾薬はほとんど底をつき小銃も二人に一丁になっていました。
 空も海もアメリカ、島の日本軍には弾薬はもちろん薬品、食糧などの補給物資が届くことはありません。洞窟の中は40度にもなり、異臭の中、飲み水すらありません。わずかに鍾乳石から落ちる水滴を奪い合う、錯乱状態の兵士を殺す、地獄のような、ただ生き延びるという持久戦です。
 「持久戦を完遂せよ」この命令の背景には、同年6~7月にかけて、サイパン、グアムで日本軍は一ヶ月も耐えきれず玉砕したことがあります。本土決戦に備え、米軍のフィリピン攻撃を一日でも遅らせるため、大本営はペリリュー島の兵士にその防波堤になることを命じたのです。洞窟の中で生き続けよという命令でした。
 地獄をさまよう兵士たちに大本営から「御嘉尚(ごか賞)」とよばれる電報が11回も送られてきます。「御嘉尚」とは、参謀長が天皇にペリリュー島の戦況を報告したときの天皇からの「お褒めの意」を汲んだ電文だったようです。兵士たちを奮起させるためだったのでしょう。

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写真⑤ 2年半ぶりに投降した兵士たち
  平塚柾緒編 『太平洋戦争史 徹底抗戦 ペリリュー・アンガウルの玉砕』 (月刊沖縄社 1977) より

 アメリカ軍はペリリュー島攻撃のさなか、10月20日、別の部隊をフィリピンに向かわせました。太平洋の防波堤になって、一日でもフィリピン攻撃を遅らせるというペリリュー島の戦いの意味はなくなりました。アメリカ軍にしても飛行場が使用可能になれば戦闘行為は無意味でした。ペリリュー島の守備隊長中川州男(くにお)大佐は、これ以上持久戦を続ける事は困難だと判断、「玉砕」の申し出電報を打ちましたが、大本営は許しませんでした。理由は「ペリリュー島での粘り強い戦いが、一億日本国民の戦意高揚に役立っている」でした。「ペリリューの灼熱の闘魂に続け」と本土決戦に備えた国民へのメッセージです。

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写真⑥地下壕陣地の内部に残る遺品

 11月24日、中川大佐自決。これによりペリリューの組織的戦闘は形の上で終結したことになります。しかし、島の洞窟に身をひそめていた兵士には何も知らされず、「陣地を死守せよ」の命令を守り続けました。その数およそ80人。(写真④)

 80人の兵士たちは、1945(昭和20)年8月15日も知らず、引き続き洞窟に立てこもっていました。アメリカ軍の投降呼びかけにも応じません。それどころか投降に応じようとした兵士が、仲間の兵士に射殺されるとういう悲劇も起きました。
 1947年4月22日、ついに残りの兵士たちが投降しました。当初ペリリュー島に派遣されたのは総員およそ一万人、生きて投降したのは34人でした。(写真⑤、写真⑥)

地図

参照地図
1940年に決定した日本の「生存権」 [大本営政府連絡会議決定] 
(不破哲三『日本の戦争』)

 アジア・太平洋戦争の太平洋の要石(かなめいし)となったパラオ、ペリリュー島。もし第一次世界大戦に参戦せず、日本の統治下にならなかったら、この悲劇はおこらなかったでしょう。
 明治以降、一貫して海外に領土を拡大してきた日本。「生存権」という名で支配に組み入れようとした領域は、1940年に満州、中国、東南アジアはもちろん、ビルマ、インド、南はオーストラリア、ニュージーランド、東はポリネシア、タヒチ(仏領)まで拡大しています。(地図参照)
 その領土的野心をふり返ると、この戦争に動員され、戦場にかり出された多くの兵士たち(ペリリューは、ほとんど20代半ばまでの青年)がどのように生命を失ったか、戦いにどんな意味があったのか? 今もなお、私たちに多くを問いかけています。

注1:
第14師団のパラオへの派遣変更により、北部マリアナには名古屋にある第43師団が派遣されることとなった。大本営はサイパン、グアムより、パラオ攻撃が先行すると(結果として)誤った判断をした。
注2:
高崎の15連隊はパラオ本島バベルダオブ島、宇都宮第59連隊はアンガウル島を中心に配備された。

参考文献、映像等
    :平塚柾緒編『太平洋戦争史 徹底抗戦 ペリリュー・アンガウルの玉砕』(月刊沖縄社 1977)
    :NHK 2008年8月1日放映「証言:兵士たちの戦争 パラオ・ペリリュー島」
    :不破哲三『日本の戦争』(日本共産党中央委員会出版局 2006)
    :大江志乃夫編『岩波講座 近代日本と植民地 全8巻』(岩波書店 1993)