企画展「震災と戦争展―東南海・三河そして東日本―」によせて
 震災と情報~戦時下の東南海・三河そして東日本大震災     西形 久司


 2011年は地震と原発事故に揺れた年でした。

 いまから67年ほど前、アジア太平洋戦争の末期に東南海地震と三河地震があいついで東海地方、そして愛知県を襲いました。東南海は1944年12月7日、三河はその37日後の1945年1月13日のことでした。東南海の死者は1,223名、三河は2,306名と言われています。

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震災と戦争展 展示パネル

 地震そのものは天災ですが、そこに戦争末期という条件がからむと、人災としての被害が加わります。東南海地震の死者には多くの学徒や外国人が含まれています。戦争末期、学徒は学業の機会を奪われ、軍需工場に動員されていました。とくに多くの犠牲をだした三菱重工名古屋航空機製作所道徳工場(名古屋市南区)は、紡績工場を転換したもので、レンガづくりの古い建物であるうえに、機体製作の空間を確保するために柱を間引きしていました。さらに「防諜」のために出入口を小さくした上に目隠しのための壁までつくられていました。そこに激しい地震が襲ったのでした。

 三河地震の死者のなかで、とりわけ痛ましいのは少なからぬ児童が含まれていることです。その児童は戦火を逃れて名古屋から三河の農村部に疎開してきたのでした。名古屋にいるよりも安全だからと自らに言い聞かせて送り出したわが子の、突然の悲報は、どれだけ父や母を打ちのめしたことでしょう。多くの児童を死なせてしまった大井国民学校の村田茂校長は、毎年1月13日に、子どもたちが犠牲となったお寺を訪ねては冥福を祈っていました。霊前には、当時子どもたちがほしくても手に入らなかったキャラメルをお供えしていたそうです。また、11名の児童と引率教員が犠牲となった妙喜寺(現・西尾市)の住職は、霊を慰めるために「師弟延命菩薩」をつくって香華を絶やしませんでした。

 このような2つの地震で犠牲となった子どもたちは、戦争末期という時期でさえなければ、生命を奪われることはなかったはずです。私たちが今回の展示で、みなさんとともに考えてみたかったことの第一はこの事実です。 2つの地震は、戦時の情報統制のもとで、被害について報道することを厳しく禁じられていました。当時の「中部日本新聞」(現・中日新聞)には、片すみに目立たない記事が載りました。そこには「被害を生じたところもある」と書かれていました。ほんとうに行政当局は被害について知らなかったのでしょうか。当時、県が作成した報告書や日本銀行に残る資料をみると、そこには時々刻々変化する被害状況が克明に記録されていました。被害報道を禁じた内務省からの通達には、「敵国に我が国の被害をさとられるような記事はいっさい載せるな」とありました。

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 それでは、海外のメディアは日本の地震について何も知らずにいたのでしょうか。たとえば、アメリカの「ニューヨーク・タイムズ」には1面に「中部日本に壊滅的地震」と報じていました。地震波は地表を伝って地球をめぐるのです。隠そうにも隠しようがなかったのです。 結局、地震について知らなかったのは日本国民だけ、ということになります。情報が伝わらなかった長野県の諏訪では、地震の激しさから震源は地元であると思い込み、戦後もしばらくは「諏訪地震」と呼んでいたそうです。

  災害に際して、正確な情報は命綱になります。情報さえあれば、自分の頭で考え、危険を察知すれば身を守るための行動に即座に移ることができます。また、安全が確保される環境にいるならば、被災地の救援に駆けつけ、救援物資や義援金を送ることもできます。戦時の2つの地震に関しては、肝心かなめの日本国民よりも、遠くにいる外国の人たちの方が的確な情報を入手していたことになります。

 さて、私たちもリアルタイムで体験した東日本大震災について、やはり災害と情報という視点からとらえてみましょう。震災の翌日の3月12日、早くもアメリカのCNNテレビは「炉心がメルトダウンする可能性がある」と報道しました。日本政府が公式にメルトダウンを認めたのは2か月もたった5月12日のことでした。つまり、知らなかったのは67年前の日本国民だけではなかったのです。21世紀の私たちも、身に迫る危険を知らないでいたのでした。これが、私たちが今回の展示で、みなさんとともに考えてみたかったことの第二です。

 67年の時間を超えて、2つの地震と今回の震災・原発事故を結びつけてみることにより、私たちは私たちのこの国や社会をより冷静により深くとらえることができるのではないでしょうか。今回の展示がみなさんとともに、そのようなことを考える場となれば幸いです。