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「戦争中の新聞等からみえる戦争と暮らし」
 救世軍の報国茶屋―日中戦争期の軍隊慰問事業      倉橋正直


写真8点

救世軍報国茶屋



関連の記事をPDFでご覧いただけます。
http://www.peace-aichi.com/20120221_tokinokoe.pdf



 【1】 報国茶屋の設置

新聞写真 済南の「救世軍報国茶屋」

『ときのこゑ』 1938年6月1日号より

 軍隊慰問事業とは、民間人の団体が戦地に出かけ、兵隊の世話をすることである。日露戦争の時、YMCAの青年たちは戦場となった中国東北地方に出かけて軍隊慰問事業を行った。これが日本のプロテスタントによる軍隊慰問事業の初めである(拙稿「日露戦争中のYMCAの軍隊慰問事業」、『榎博士頌寿記念東洋史論叢』所収、汲古書院、1988年)。
第一次世界大戦では、イギリスなどの救世軍は戦場に出かけて熱心に軍隊慰問事業を展開した。

 こういった経験を踏まえて、日中戦争が始まると、プロテスタントの一派である救世軍は軍隊慰問事業を始める。1937年11月、河北省石家荘(せっかそう)に報国茶屋という施設を開く。どのようないきさつから報国茶屋という名前がつけられたかはわからない。戦地で軍隊慰問事業を行うのであるから、軍の許可・援助が必要であった。石家荘という場所の選定も、軍部の意向に添ったものであった。報国茶屋の土地・建物は、軍が供与した。

 日中戦争の長期化に伴い、戦域は際限もなく拡大してゆく。このこともあって、救世軍の報国茶屋は当初、場所が定まらなかった。すなわち、おそらく軍の意向によって、約一ヶ月で石家荘から、山東省徳州(徳県)に移動する。徳州は比較的小さな町であった。ここで約一ヶ月間、活動する。1938年1月、再び移動して、山東省の済南(さいなん)に移る。済南は山東省の省都であり、有数の大都市であった。以後、報国茶屋は、日本の降伏まで、7年半の間、ずっと済南で活動した。

 後述するように、報国茶屋は兵隊に対する慰問事業を行った。それとは別に、中国民衆に対する宣撫工作の一環として、救世軍は無料の医療を施し、また、日本語講習所を経営する。これらの事業は、報国茶屋ではなく、別の所(済南の城内)で行われた。本稿では兵隊に対する慰問事業だけを扱う。中国民衆を相手とした事業のことは割愛する。

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 【2】 飲食と売春婦は提供しない

新聞記事

『ときのこゑ』 1938年5月15日号より

 日本軍が中国のある都市や地域を占領する。そこに、まもなく在留日本人が多くやってくる。彼らは中国の既存の都市の一角に集中して住んだ。こうして、日本人町が形成された。戦争が長期化し、占領地域が拡大するにつれ、中国戦線にやってくる在留日本人はどんどん増えてくる。

 彼らの数はかなり多かった。日本の降伏後、中国戦線から49万人の日本人が引き揚げてくる(厚生省援護局編『引揚げと援護三十年の歩み』、1977年、690頁)。朝鮮人・台湾人も加えれば、60万人程度になった。これが最終段階の在留日本人の人数であった。彼らは華北を中心にして、およそ200の日本人町を形成して、暮らした。

 日本人町に集まった在留日本人の多くは、日本軍の兵隊の世話をした。具体的には飲食(食事とお酒)と売春婦の提供であった。兵隊がまず求めるものは飲食と売春婦だったからである。大きな日本人町は、それでも経済活動をしている。しかし、小さな日本人町の場合、兵隊たちに飲食と売春婦を提供することで、生計を立てていた。

 済南は重要な都市だったので、在留日本人も多く集まってきた。1940年7月末の済南総領事館の調査によれば、済南在留の日本人は15,879人【男子8,836人、女子7,043人。朝鮮人、台湾人を含まない。済南日本商工会議所編『済南事情』、1941年1月、8頁】であった。

 救世軍の報国茶屋は、在留日本人と同じことをやってはいない。彼らが提供しなかった分野を扱った。報国茶屋では通常、紅茶とビスケットしか出さなかった。これでは食事にならなかったから、兵隊たちは別の所で食事をしたあとに、報国茶屋にやって来た。また、お酒も一切、提供しなかった。お酒を飲んで騒ぐというのも、別の所でやらねばならなかった。

 また、売春婦もいなかった。だから、報国茶屋は、売春とは無縁であり続けた。ここでも、廃娼運動を果敢に戦ってきた救世軍の伝統に忠実であった。兵隊は誰でも来てもよいのであるが、中には、こういった報国茶屋の性格を嫌って、足を向けないものもいた。 戦闘や行軍の合間に、休暇を得た兵隊たちが、三々五々、報国茶屋にやって来る。彼らに暖かい紅茶とビスケットをふるまった。日本各地の新聞・雑誌を備えたので、兵隊たちはくつろいで備え付けの新聞・雑誌を読んだ。

 蓄音器にレコードをかけて、軍歌などを聞いて楽しんだ。ピンポン台が設けられていたから、ピンポンに打ち興ずるものもいた。無料で散髪もした。時におしる粉をふるまった。甘いものに飢えた兵隊たちから大歓迎された。兵隊たちの写真を撮った。その写真を内地の家族の所に郵送した。

 救世軍病院の歯科医師(浦田救世軍大尉)が長く派遣されていたので、兵隊たちは歯の治療もやってもらえた。また、ごく少数であるが、キリスト教に親近感を抱くものは、救世軍の士官(牧師のこと)とともに祈り、心の安らぎを得た。

 救世軍は二人の士官を報国茶屋に常駐させ、兵隊たちの世話に当たらせた。救世軍はごく小さな教団だったから、彼らが行った事業もささやかなものであった。それでも、兵隊たちから大歓迎された。兵隊たちは、戦場近くに出現した救世軍の報国茶屋に喜び、かけつけた。あまりに過酷で殺伐とした戦場と比較すれば、報国茶屋の雰囲気は別天地のように感じたからであろう。

 従軍僧・従軍牧師は、戦闘部隊と行動をともにするので、戦場で命を落とす危険があった。しかし、報国茶屋を担当する救世軍士官は、ずっと済南の町で暮らした。日本人町の治安は保たれていたので、まず安全であった。

 戦場にあっても民間人であったという点では、救世軍士官は、日本人町に暮らす在留日本人と同じであった。結局、救世軍士官は、日本人町に暮らす在留日本人と、従軍僧・従軍牧師の両方の性格を合わせ持っていた。彼らは戦場にやってきた民間人であり、かつ、宗教者であった。

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 【3】 報国茶屋のようす

 一日に数百人の兵隊が押し寄せてきたのであるから、報国茶屋の建物・敷地は相当大きかったと思われる。次の史料から、報国茶屋の建物・施設のおおよそがわかる。

 「救世軍報国茶屋」は、毎日毎日、勇士が集はれる所となり、済南はおろか北支の名所になりました。写真部も繁昌で、七戸大尉は其の方へ専心励んで居ります。一日に三、四十名程の撮影で、大変喜ばれて居ります。
 ○○医務室での歯科診療もお蔭様で繁昌し、昨九日(金)の如きは、午前中受附○○名で、午後二時まで治療時間を要しました。(中略)
 次に○○司令部で、医務室の改造造作を致され、新たに歯科室を一室設置して戴きました。其の序に「報国茶屋」の修繕改造をするやう申され、休憩室、新聞閲覧室、支那人ボーイ室、倉庫、便所、ピンポン室、七戸大尉居室、事務室、私の居室等を、大々的改造造作を致しました。
 是は大変費用もかかった事ですが、軍の大なる理解と援助とを思うて、感謝して居ります。私共も一層責任を感じますと共に、大いに励みたく決心を致した次第であります。(九月九日 浦田大尉)
『ときのこゑ』、1938年10月15日。【『ときのこゑ』は救世軍の機関紙。「鬨の声」だから、軍隊を想起させる。】

新聞写真「ピンポンに労苦を忘るる軍人」

『ときのこゑ』 1939年5月1日号より

 報国茶屋には、歯科室のほかに、「休憩室、新聞閲覧室、支那人ボーイ室、倉庫、便所、ピンポン室、七戸大尉居室、事務室、私の居室等」があった。休憩室で、兵隊たちは紅茶やビスケットの接待を受けた。写真の撮影や理髪も、休憩室で主に行なわれたのであろう。多くの兵隊が集まるのであるから、休憩室は相当の広さがあったと推測される。

 兵隊は新聞閲覧室で、日本各地から送られてきた新聞や雑誌を閲覧した。兵隊はいったん、戦場に送られてしまうと、世間の情報から遮断されてしまう。世の中の動きがどうなっているか、知ろうと思っても、戦場では何もわからなかった。報国茶屋に来て、新聞や雑誌をゆっくり読めることは兵隊にとって、何よりうれしかった。日本や世界の動き、あるいは、自分がいま戦っている日中戦争の全般的な情勢も、新聞・雑誌を読むことで、やっとある程度、知ることができたからである。

「支那人ボーイ室」もあった。一日に数百人規模で、兵隊が日常的に押しかけてきた。兵隊は外泊が許されていなかったから、報国茶屋に兵隊が宿泊することはなかった。その分、彼らの来訪は早朝から深夜にまで及んだ。二人の救世軍士官だけでは到底、応対しきれなかった。

 それで、中国人を雇ったのであろう。仕事の量が多いし、働く時間も長いことから判断して、雇われていた中国人は一人ではなく、数名いたのではなかろうか。「支那人ボーイ室」があることから、彼らは通いではなく、報国茶屋に部屋を持ち、住み込んでいた。

 紅茶を提供するために、常時、大量のお湯を沸かしておかねばならなかった。また、毎日、数百人の兵隊が出入りするのであるから、部屋の片付けも容易ならざる仕事となった。多くの兵隊に気持ちよく来てもらうために、部屋の清掃・整理には気をつかった。中国人を雇って、こういった仕事をやらせたのであろう。ただ、救世軍士官は中国語が話せなかったから、雇った中国人に仕事を指示するのに苦労したことであろう。

 ピンポン室とあるので、ピンポンは庭ではなく、室内で行われた。「七戸大尉居室、事務室、私の居室等」とあるので、二人の士官はそれぞれ個室を持っていた。報国茶屋はさまざまな事業を営んでいたので、それらを士官の居室では処理しきれなかった。それで、事務室を別に設けて、一括して処理していたのであろう。

 浦田救世軍大尉はもともと救世軍病院の歯科医であった。彼が報国茶屋に赴任したので、歯科の治療をすることになる。多くの兵隊がやってきて、歯の治療をしてもらった。浦田大尉の診療の便を考慮して、歯科室を新設したのである。

 前線で戦う兵隊は、歯磨きなど、ろくにできなかった。そのため、歯を悪くするものが続出した。だから、報国茶屋で兵隊相手に歯の治療を始めたのは、多くの兵隊から歓迎された。果たして浦田大尉の赴任は偶然なのであろうか。それとも、兵隊の歯の治療の必要を考慮して、軍が救世軍に対して歯科医師の派遣を特に要請した結果なのであろうか。関係する史料がないので、浦田歯科医の赴任の事情はわからない。

次の史料は、報国茶屋の事業のおおよそを述べている。

 日本各地の新聞及び雑誌を備附けて、軍人諸君の自由縦覧に供し、お茶にビスケット等を用意し、蓄音器を備へ、また理髪に応ずる設備を為したが、自由学園では、生徒達が弁当を節約して金を出合せ、勤労報国日に、小学部、高等学部の生徒数百名が、手製の報国ビスケット廿缶を作りて寄贈され、森永製菓会社からビスケット四十缶、明治製菓会社からバナナ菓子六十缶寄贈された。それは第一回で、第二回、第三回と寄贈されたのは感謝である。
(『支那事変と救世軍』、救世軍出版及供給部、1939年7月。7頁)

 たしかに明治製菓株式会社から「缶入菓子三十缶(石油缶大)第二回分」が寄贈されている(『ときのこゑ』、1938年12月15日)。
 また、羽仁もと子の自由学園の生徒から、手製のビスケットが寄贈された。しかも、これは三回目の寄贈であった(『ときのこゑ』、1939年4月1日)。

自由学園の生徒からのビスケットの寄贈は半年に一回ぐらいの割合であった。せっかく内地からわざわざ贈ってくれたのであるが、その程度の分量では象徴的な役割しか果たせなかった。むしろ自由学園の戦争協力の姿勢を示すのが目的であったと、私には思われる。
 実際、報国茶屋を取材した新聞記者(東静日日新聞特派員)は、「羽仁もと子女史の自由学院の耶蘇信者生徒の純真熱烈な愛国心が、パンとなりお菓子となって、」と手放しでたたえている(『ときのこゑ』、1939年3月15日。)

このように、外部の会社や学校からビスケットの寄贈を受けた。しかし、毎日、数百人の食べ盛りの兵隊が押しかけてくるのであるから、報国茶屋で消費するビスケットの量は膨大であった。寄贈された分量では、焼け石に水であった。だから、必要とされるビスケットの大部分は、報国茶屋が自力で購入せざるを得なかった。

 時期は少し遅れるが、ハワイの日本人の救世軍から、大量のコーヒー豆と砂糖が報国茶屋に送られてくる。当時、中国とは戦争をしているが、太平洋戦争はまだ始まっていない。だから、ハワイから物資を日本に送ることができた。

 北支に於ける救世軍報国茶屋」の目覚しい働を伝へ知った布哇のヒロ、ホノルル救世軍両小隊の戦友たちは、「救世軍報国茶屋」のために物資を送って助けるやう決議し、先頃、コーヒー二百斤、白砂糖三百斤、ミルク二箱を、ホノルル総領事・水沢孝策氏の尽力により、救世軍日本本営に贈って来られたので、…
『ときのこゑ』、1939年1月1日

 「二百斤」は120キロである。120キロのコーヒーといえば、相当の分量である。そこで、それまで紅茶だけを出していたが、以後はコーヒーもふるまわれるようになった。
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 【4】 兵隊たちにとってオアシス

 報国茶屋に関する記事は、『ときのこゑ』のほとんど毎号に掲載される。数多く掲載することで、救世軍が戦争に協力していることを示したかったのであろう。報国茶屋では、時に、おしるこやぜんざいが兵隊に供せられた。兵隊は甘いものに目がなかったので、おしるこやぜんざいは大歓迎された。次は、かつて報国茶屋で「しるこ三杯、更に戻って三杯」も食べたという話である。

 「しるこ」三杯 更に戻って三杯 「救世軍報国茶屋」挿話
 名誉の戦傷を受けて、陸軍軍医学校収療中の一軍人あり。北支にて転戦中の或日のこと、しきりに甘い物が食べたくなったが、四辺にあらう筈がない。所が戦友から五百メートル隔てた所に、甘い物を無料で食べさせる所があると聞き、探し当てたのが石家荘の「救世軍報国茶屋」であった。  最初「しるこ」を一杯出された時は、夢中で飲んでしまった。二杯目も殆ど夢中であったが、三杯目は遠慮して食べた。もっと欲しいが、気まりがわるくなり、一旦外に出たものの、再び戻り、更に三杯食べ、嬉しくって溜らず、傍の雑記帳に感謝の言を記し、大満足で戦線に向うたといふことである。
『ときのこゑ』、1939年7月1日

「報国茶屋」のぜんざい接待

『ときのこゑ』 1939年3月1日号より

 次はぜんざい接待のようすである。「白玉粉をねって、ゆで団子九百箇ほど用意」したというのであるから、大量のぜんざいが作られたことがわかる。

 「報国茶屋」のぜんざい接待 兵隊さんよろこぶ
 一月四日は、翌五日の「ぜんざい日」の準備をなし、小豆を煮、白玉粉をねって、ゆで団子九百箇ほど用意しました。五日早朝、「本日、兵隊さんぜんざい接待、大歓迎、一月五日、『皇軍慰問救世軍報国茶屋』といふポスターを出しました。
 教会からも婦人二名(森夫人と北支鉄路局課長古原氏夫人)他に一名、都合三人が手伝に来てくれました。此の催は大繁昌で、極めて有意義に終りました。吉丸さんから白菜及びタクワンの漬物を沢山に頂いて、みんなで、おいしいおいしいと喜びました。
 医務室の大佐殿を初め皆さんに差上げましたら、大変喜んで下さいました。衛兵所からも申込んで来る有様で、繁昌を極めて品切となり、終ったのは丁度、夕方でした。(一月七日  済南にて、浦田救世軍大尉)
『ときのこゑ』、1939年3月1日

 報国茶屋は、やってくる兵隊たちで、早朝から深夜までにぎわった。そのようすを次の史料は的確に記している。

 北支に於ける「救世軍報国茶屋」の一日
 支那の荷車、一輪車の軋る音、苦力達の叫び声に眼を覚ますと、午前六時といふに、既に兵隊さんの声で、「叔父さん!」。また、支那人ボーイを呼ぶ声が聞える。奥の休憩所からは、レコードの音が聞え、之は朝から晩まで無休だ。
 此の慰安がナンバー・ワンであり、「紅茶を下さい。」「お茶を飲ませてくれ。」「僕はもう出発だから写真を撮ってくれ。」「水筒にお湯を入れてくれ。」など、次から、次に用がある。お昼の時刻が来るのが、実に早い。お菓子の早くなくなること驚くばかり。或軍人は、つかつかと入って来て、ああ家に帰ったやうだと云ひ、或軍人は生きかへったやうな気がすると、如何にも満足さうな叫を発する。
 散髪を頼む者、新聞、雑誌に見入る者も相当にある。中には「歯科の治療をやって下さい。治療されるさうですね。」と随分、歯を悪くした方が多いやうである。かうした間にも、奥の方からは、絶えずレコードの音が流れて来る。「母さん、お手紙有難う。僕も負傷はしましたが、なんのこれしき、かすり傷。日本男子の名誉です‥‥」
 支那の日は長い。午後八時半といふに明るく、日が暮れるのが午後九時。斯様な有様で、時間の過ぎるのを知らずに過してゐる。
 午前二時半頃のことであったが、数名のお客さんが、今、駅へ着いたばかりなので、泊るところがないから、何処でもよいから頼むと言って、休息せらる。斯うした深夜の奉仕こそ、真の奉仕の機会と、飛び起きてお世話をする。さうすると、「実に救世軍のお蔭で助かります。」と云って、朝早く出発されるのである。
 凡てが感謝と感激との場面である。早や新しい日のお客さんが見えた。一昼夜の過ることの早いのに驚く外はない。(註、お客さんとは、皇軍勇士のことである。) 済南に於て 浦田大尉
『ときのこゑ』1938年6月15日 

感想文の写真

『ときのこゑ』 1938年6月15日より

報国茶屋を利用した兵隊たちは、備え付けのノートに感想を記している。その一部が救世軍の機関紙に掲載された。以下は、兵隊たちが記した「感想記録の抜粋」である。

□ 遠い異郷の陣中に、千万言の慰問にまさる貴軍の御厚意、深く御礼申上げます。(中略)
□ 感謝! 我等のオアシス救世軍。 (中略) 
□ 救世軍に深謝します。戦線に於て、蓄音器を聴けるとは思ひませんでした。戦線の月を聴く時、子をもつ私達は、何かしら目頭が熱くなりました。一死報国以て皇軍の本分を完うします。 (川鍋信一) (中略)
□ 一休み、紅茶の一杯貴し、千金に当る、ああ感謝致します。
□ 近くの衛兵所をのぞいた時、「報国茶屋」の話を聴き、無言で室内に一歩入る。ボーイの出す茶を一口に飲み、煙草に火をつけて、聴いたのは「戦線の月」だった。何時の間にか目頭が熱くなり、煙草を取落しました。
□ 御慰問の意と歌とに感激の余り、胸が一杯になって、両手を合しました。めったに出ない三十男の涙。昨年○月以来、北支四百里の道を歩き、数度の激戦もなし、戦死した戦友にも、此の紅茶を飲ませ、メロデーを聴かせてやりたかった。
□ 思へば故郷離れて以来、初めて耳にする蓄音器だった。何時までもレコードに齧りついてゐたかったが、もう時間がない。生命があったら、又、伺はう。
『ときのこゑ』、1938年7月15日

 報国茶屋のレコードの中に、「戦線の月」という歌があった。この歌の内容は、今の自分たちの境遇とそっくりだった。そこで、この歌を聞いた兵隊たちは、万感、胸に迫って、「何時の間にか目頭が熱くなり、煙草を取落しました。」という状況に立ち至ったのである。

▽海山遠くはなれ、異境の地にて報国茶屋に一歩足を踏み入れれば、なつかしい我が家へ帰った様だ。我々の心を励して下さる銃後の皆様に感謝する。(一兵士)
▽報国茶屋に一休みすると、小生が家に帰った楽しさだ。大陸にゐるやうには思はない。厚く御礼申上げる。(一兵士)」
△救世団の皆様、有難う。甘いコーヒーで今迄の苦労が去った様に思はれ、何と御礼申上げてよいやら感謝のほかはありません。(○○兵 吉田正一)(中略)
▽外出すれば、まづ第一番に報国茶屋へ、日々の勤務の疲れを当茶屋で愉快に遊び、明日の任務を果す。報国茶屋は我等の母である。(皇軍兵士)
▽外出の楽しみは先づ報国茶屋! 親切で気兼なく遊べる。(○○兵士)(中略)
▽我等は二人で、いつもこの報国茶屋を一番の楽しみとして来ます。レコード、雑誌、新聞、其の他コーヒーの美味にのどをうるほして、一日たのしく遊ばせていただきました。理髪器で久し振りに美男になったので、トクイで帰営致します。 (○○部隊一等兵の二人)
(『日本救世新聞』、1941年7月1日)【『日本救世新聞』は、『ときのこゑ』の後継紙である。】

 ノートに書き記した感想文から、出征中の兵隊たちが切実に求めたものがかいま見えてくる。彼らは、「なつかしい我が家へ帰った様だ。」とか、「小生が家に帰った楽しさだ。」と書き留めている。たしかにある種のお世辞も混じっているが、しかし、彼らの感想文にウソいつわりはなかった。

 兵隊たちは率直な思いを書いている。長い外征に倦みつかれた兵隊たちが潜在的に求めたものは、無事、除隊し、晴れて内地の我が家へ帰ることであった。彼らは、なつかしい我が家に帰りたかったのである。

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 【5】 撮影した兵隊の写真を、家族のもとに郵送

写真 

『ときのこゑ』 1938年6月1日号より

 戦地に来た兵隊たちは写真に撮られることを好んだ。自分の写った写真を家族のもとに送りつけることで、元気でいることを知らせようとしたからである。だからこそ、1940年5月末、済南の日本人町に、35軒もの写真屋があったのである(前掲、済南日本商工会議所編『済南事情』、170頁)。
 写真屋の主なお得意様は兵隊たちであった。この現象は、済南だけでなく、中国戦線に形成された日本人町におしなべてあてはまった。

 救世軍士官も兵隊たちの写真を撮った。カメラは現在のように簡便なものではなかった。また、利用できるフィルムの枚数にも限りがあった。だから、撮影した兵隊の数は一日に数十名程度であった。

救世軍士官が兵隊たちの写真を撮る際、多くの場合、集団ではなく、一人一人、個人的に撮った。そして、撮影してあげた兵隊の家族の住所を記録しておいた。できあがった写真を、兵隊ではなく、彼の家族のもとに郵送した。兵隊はいつも移動していて、できあがった写真を送りつけようと思っても、送り先がわからなかったからである。写真の郵送には軍事郵便を利用できたので、費用は免除された。軍が救世軍のために便宜をはかってくれたのである。

 戦地で兵隊の写真を撮り、でき上がった写真を内地の家族のもとに郵送する。こういったユニークな企画を考え出した報国茶屋の救世軍士官に敬服する。とてもよい企画となった。写真に撮られた兵隊本人だけでなく、できた写真を送りつけられた家族をも、また喜ばせたからである。

 次は、救世軍の写真撮影のサービスが、兵隊たちに歓迎されていることを伝えている。

 店開きもしない中から、第一番に飛び込んで来たのは、○○部隊の○○軍曹。「よく来ましたね。僕を皮切に一枚写真を撮って下さい」と早速注文。済南にても、写真の注文が殺到した。天長節の当日の如きは「ぜんざい」を丸めて、真白になった手を洗ふ暇もなく、九十人ほども写したことがあった。徐州でも之は写真攻になるらしい。然し勇士たちの喜ぶ顔を見ると、何も彼も忘れて元気になる。「僕の顔に写真とでも書いてありますか」と、其の軍曹と大笑したのであった。(中略)
 中には「救世軍さん。又これを頼みますよ」と云うて、写真撮影の手真似をして帰る兵隊さんもあり、到着早々なかなか賑かである。
『ときのこゑ』、1938年8月1日

 次は、報国茶屋が、兵隊の家族の所に写真を郵送する時、写真とともに送った説明文である。丁寧で、心のこもった手紙になっている。

 謹啓、貴家益々御清栄の事と存じ上げます。陳者、日本救世軍皇軍慰問事業『報国茶屋』を北支の戦線に開設いたしましたのは、昨年十一月でありまして、石家荘、徳県と逐次移動して参り、唯今では、済南に於て、その働を続けて居ります。
 『報国茶屋』には、紅茶、菓子の接待、竝に無料散髪、全国の新聞、雑誌等を備へつけて縦覧に供して居ります。呼物の紅茶も『こりや美味い、テンホーテンホー(すばらしい)』と大変おほめの言を頂いて居ります。
 或はレコードを聴いて、ホロリと涙を流される方も見受けます。きっと故郷に在る皆様のことを思ひ出してのことと存じます。鬼をも拉ぐ武人にも、此の涙かと、端で見てゐる私共も、此の血あり、涙ある武人の情に、幾度も幾度も貰ひ泣をいたしました。『内地に帰ったやうだ』『家に帰った様だ』と云ひつつ、喜んで居られます。
 本日、はからずも貴家の○○様が『報国茶屋』にお立ち寄り下さいまして、数刻、愉快な時を過されました。写真の様な元気な御姿をお目にかけて、皆々様に喜んで頂きたく、右一寸その様子をお知らせ申上げる次第で御座います。神の御祝福、御一家の上に豊に在らん事を祈り上げます。 敬具」
『ときのこゑ』、1938年5月1日

 軍事郵便で、この説明文とともに、中国山東省済南市の救世軍報国茶屋から、夫や息子の写真が家族のもとに送られてくる。受け取った家族はびっくりする。また、喜ぶ。夫や息子の元気な姿を写真で確認した家族は、お礼の手紙を送る。『ときのこゑ』には、そういった家族からの礼状が数多く掲載されている。手紙の文から、最愛の夫や息子を兵隊に「とられた」留守家族の苦しさが伝わってくる。

 ▼父ちゃんだ
 拝啓、此の度は、誠に御親切なる御手紙、有難く拝見致しました。読んで行く中に、皆々様の御同情にただただ感謝する心に一杯になりました。お蔭様にて水島もどんなにか嬉しく、過して行ったことであらうと、一同感謝致して居ります。本当に有難うございます。此の様にしてまで、元気な姿を見せていただき、皆な大騒をして喜び、当人に会ったやうな気がしました。
 とりわけ子供たちは、「ああ‥‥これは父ちゃんだ。父ちゃんだ。」と喜ぶ様は、側で見る目もいぢらしい位でした。末の四つになる子供は、丁度、水島が召集される時、やっと、よちよち歩く位で、顔もよく覚えて居なかったでせうが、それでも写真を見ると、「ああ‥‥父ちゃん、父ちゃん」と大騒です。
 時々、此の様なことで、子供たちに泣かされます。ああ、若し本当に父が帰って来たなら、どんなにか喜ぶだらうと思ひます。(後略)(千葉県  水島加津子)
『ときのこゑ』、1938年6月1日

 小さな子どもたちと留守をまもる妻の悲哀が伝わってくる。文末の「ああ、若し本当に父が帰って来たなら、どんなにか喜ぶだらうと思ひます。」という箇所に、彼女の本心が思わず露呈している。元気な夫の写真を送ってもらったのは、もちろん、うれしい。しかし、本人の帰還がいつになるか皆目わからない。本人が元気で早く帰ってきてほしいと心から願ったはずである。

 ▼兄は二人とも
 (中略)私共も写真を見て、やっと安心致しました。兄も元気であったとのこと、家内一同、何よりの喜悦でございました。出征以来、初めて写真を見たのでありますから、家内一同の喜びは、一通ではありません。私を初め、弟妹たちは、手をたたいて喜びました。私は近所に見せに廻るやら、大騒動をしました。私共は両親に早く死に別れ、頼りにしてゐた兄は二人とも、国家のために御奉公して居り、弟妹と三人で淋しく暮して居ります。(三重県  清水しずゑ)
『ときのこゑ』、1938年6月15日

 この留守家族の場合、「私共は両親に早く死に別れ、頼りにしてゐた兄は二人とも、」兵隊になっているという。そのうちの一人の兄の写真が送られてくる。「頼りにしてゐた兄」たちがいないので、私は「弟妹と三人で淋しく暮して居ります。」というのである。手紙の文面から、留守家族のきびしさ・さびしさがよく伝わってくる。

 報国茶屋から、内地の家族のもとに送られた兵隊の写真は、相当な数にのぼったことであろう。次の史料は、感謝祭への献金を募っている際、息子の写真をわざわざ送ってくれたことに感謝して、気持ちよく献金してくれた人がいたと述べている。

 押上小隊長・和田大尉が、松戸町を感謝祭の募金中、「家の子供が北支で『救世軍報国茶屋』のお世話になり、写真まで送って頂いて、誠に有難うございました。」と喜んで献金した人があった。
『ときのこゑ』、1938年11月1日

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 【6】 軍隊慰問事業の中では、最もわかりやすい

写真「無料散髪奉仕」

『ときのこゑ』 1939年4月15日号より

 軍部は中国戦線に多くの民間人が移住してきて、日本人町を形成することを容認する。
 日本人町に暮らす在留日本人は、いわば兵隊たちの「福利厚生」を担当した。その中心が飲食と売春婦の提供であった。周辺地域に駐屯する兵隊たちは休暇の時、日本人町に順番にやってきた。そこで、彼らはおいしい料理を食べ、酒を飲んで騒ぎ、売春を行った。

 大きな日本人町の場合、都市機能も充実していた。兵隊たちを待ち受けていたのは飲食と売春婦だけではなかった。猥雑な都市機能が全体的に兵隊たちを歓迎した。兵隊たちは畳が敷かれた、きれいな部屋で休息し、飲食を取った。日本式の風呂に入って、久しぶりに身体を洗うこともできた。映画館では日本映画を上映していた。買い物もできた。日本人町には写真屋が多くあったから、写真を撮ってもらうこともできた。大きな日本人町には数千人から数万人の在留日本人がいた。彼らとつきあうのも、兵隊たちにとっては楽しみの一つとなった。

 兵隊たちは日本人町にやってきて、元気を回復した。たしかに日本人町は兵隊たちの戦闘力の回復に大きな効果があった。しかし、それは決して万全ではなかった。飲食と売春婦を中心とする日本人町のサービスだけでは、彼らは必ずしも満足しなかった。彼らの要求はもっと多様で、複雑であった。

 戦争が長びけば長びくほど、兵隊たちはこれまでとは違ったサービスを求めるようになる。日本人町の商人たちが提供しにくいようなサービスである。その一つが、今回、紹介した報国茶屋のような軍隊慰問事業であった。ここは、日本人町が兵隊たちに提供した定番、すなわち、「おいしい食事、お酒、売春婦など」を提供しなかった。

 その意味では異色であった。それでも、兵隊たちはこのような軍隊慰問事業を歓迎した。「食事、お酒、売春婦」を提供しなかったが、軍隊慰問事業は、どこかに兵隊たちをひきつけるものを持っていた。こういった事情を受けて、日本人町に報国茶屋のような施設が次々と作られてゆく。次はその例の一部である。

 徐州にも軍人ホールが出来た。兵站司令部自慢の設計で、差当りホール内にはピンポン、碁、将棋、新聞、雑誌室等を設備。ホール、売店も酒類は禁止。兎に角、アルコールと女抜きで、長期建設をしっかと自覚しながら、兵隊さんを慰安さす設備で、二十七日から開館した。
『大阪朝日中支版』、1939年7月2日

 居留民団の努力により、広東市漢民北路に皇軍無料休憩所が出現。さる一日から開所したが、これまで自分たちのみの休憩所を持たなかった兵隊さんの喜びは一方ならず、四日の日曜日は外出を許された兵隊さんで大賑ひを呈した。国防婦人会員の奉仕で、汗をかきながら、あついお茶にのどを潤した兵隊さんは雑誌、新聞に読みふけったり、碁、将棋に興ずるさまは、現地における兵隊さんと銃後の美しい団結の一面を物語ってゐた。
『大阪朝日北支版』、1940年8月10日

 宿遷軍人ホールは数多い宿遷名物の一つで、同地居留民会経営にかかるものだが、完全な倶楽部である。会議室、雑談室、図書室、ピンポン台や畳を備へた娯楽室、さては無料浴室まで一切合切の設備を持ち、軍人さんにとっては外出時の慰安場所、居留民にとっては社交場である。(中略) 兵隊さんが外出の際、手足を伸す場所の必要なことは分り切ってゐるが、色々の事情で簡単に出来ない。といって、絶対になくてならぬものだから、
『大阪朝日北支版』、1940年11月13日

 “軍人の家” 天津で大人気
二月一日から天津駅前に開設された『軍人の家』は、事変当初から天津名物の一とまでなってゐる“をばさんの家”とともに、その後、兵隊さんたちの娯楽場として賑はってゐるが、最近では一日平均百名の皇軍将士がここを利用してをり、天津駅が附近にあるだけに、汽車の乗降、将兵の待合所の延長としての利用が目立ってゐる。ピンポン台、蓄音器などの設備から、国婦会員のサーヴィスもぼつぼついたについてきたし、今後の利用はますます増加するものと見られてゐる。
『大阪朝日中支版』、1941年3月11日

 まず、徐州にできた軍人ホールは、「ホール、売店も酒類は禁止。兎に角、アルコールと女抜きで、」とある。また、広東の皇軍無料休憩所では、国防婦人会員が動員されて兵隊たちの世話をしている。宿遷は江蘇省北部の小さな町である。宿遷軍人ホールは、居留民会が経営した。天津には、以前から国防婦人会員が世話をする「をばさんの家」があった。これに加えて、「軍人の家」が天津駅前に開設された。

 このように、中国戦線の日本人町に、各種各様の兵隊を慰問する施設が設置される。多くの場合、「軍人ホール」と呼ばれたが、名前は必ずしも一定していなかった。「軍人ホール」を経営するものもさまざまであった。軍部はいろいろ便宜を供与したが、直接、運営しなかった。宗教団体、在留日本人の組織(居留民団・居留民会・在留日本人会など)、国防婦人会、在郷軍人会などが、「軍人ホール」の運営にかかわった。

 多くの組織・団体が、日本人町で「軍人ホール」のような施設を設置し、それぞれのやりかたで軍隊慰問事業を行った。彼らの活動は当時の新聞に断片的に出てくる。これをもとに、もっと詳しく調べてゆこうとする。しかし、史料が入手できない。

 居留民団などの在留日本人の組織は、軍隊慰問事業のことをきちんと記録として残していない。国防婦人会、在郷軍人会は、もともと記録として残すだけの力量を持っていない。まとまった史料を残せるのは宗教団体だけである。ところが、宗教団体にしても、自分たちの教団がかかわった軍隊慰問事業について、これまで、きちんとした史料を公表していない。だから、戦争中に外地で彼らが行った軍隊慰問事業について調べようと思っても、史料不足から調査できない。

 そういった状況の中で、救世軍が行った報国茶屋だけが例外になる。報国茶屋の状況を調査できるのは、教団の機関紙『ときのこゑ』などが復刻されたからである(不二出版、1987年)。

 戦争中の難しい時代、イギリスに本営を有する救世軍は弾圧される。教団、機関紙、さらに社会福祉事業の施設の名称まで強制的に変更させられる。教団幹部が憲兵隊に連行されることもあった。また、時期は少し前になるが、イギリスの本営から独立して、日本独自の救世軍になるべきだという策動も続いた。そういった状況の中で、救世軍は苦しみながら、耐えぬいてゆく。

だから、『ときのこゑ』の中には、現在から見れば、公表されたくない記事(戦争協力を明言するような記事)も当然含まれている。にもかかわらず、救世軍は、つごうの悪いところを敢えて隠さず、発行された時と同じ紙面で復刻してくれた。宗教者としてのいさぎよさに感服する。『ときのこゑ』を復刻してくれたおかげで、日中戦争の時、さまざまな団体が行った軍隊慰問事業の中で、救世軍の報国茶屋が最もわかりやすいものになった。

 報国茶屋の活動については、教団の機関紙『ときのこゑ』などに、実に詳しく掲載されている。これを丁寧に調べてゆけば、報国茶屋の状況がほぼわかってくる。設置の時期からいえば、救世軍の報国茶屋の設置がおそらく最も早い。戦争が始まって4ヵ月後の1937年11月にすでに設置しているからである。各地に設立された「軍人ホール」の設置はもっと遅い。また、報国茶屋は敗戦まで7年半もずっと活動を続けた。

 救世軍は、既成仏教教団などと比べれば、はるかに小さな教団であった。報国茶屋に使える財政にも限りがあったから、軍隊慰問事業の規模が小さくなるのはやむをえなかった。報国茶屋は済南に一ヶ所あっただけである。そこに士官二人を常勤させるだけであった。のちになると、無料の医療事業や日本語講習所を担当する職員が増派されるが、それでも、常勤の職員の人数は少なかった。

 規模は小さかった。しかし、済南という華北の中核都市の一つに位置していたこともあって、救世軍の報国茶屋は相当大きな働きをした。報国茶屋の活動は、その後、中国戦線の各地に続々と設置されてゆく軍隊慰問事業の模範となった。

 要するに、報国茶屋のような軍隊慰問事業は、日本人町が提供する「福利厚生」の欠を補う存在であった。軍隊慰問事業は、日本人町とは違った側面から、日本軍の戦争遂行を支えたのである。

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(2012年2月18日  愛知県立大学名誉教授)

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